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■俳句エッセイ
入り口は『邯鄲(かんたん)・盧生(ろせい)の夢』、中身は『逢魔時(おうまがどき)』
−−−『小糸隠し絵』を巡る率直な疑問に答える
和泉 清(俳句研究家)
図1 『小糸隠し絵』、小糸の髪(=南天の花)から立ちのぼる香り

 

『小糸隠し絵』を現代人が観た場合、違和感を感じてしまうのは、画面に「ゴロン」と横たわる蕪村の姿でしょう。ということで予想される反応。

○現代人としての意見
・「これだと、芸子、小糸に対してセクハラ的な位置の、セクハラ親父にしか見えません。
蕪村はどんな理由でもう若くはなく、美しくもない自分の姿を『小糸隠し絵』の中で表現しようとしたのでしょうか? 」

・「オヤジ蕪村の姿が、この絵を台無しにしている。蕪村のセンスを疑うと感じてしまった人もいるのではないでしょうか」

・「ストーカーみたいに小糸さんて人狙っているように見えるんだけど? それで、これダメじゃん! 」

などと思う人もいるでしょう。


○江戸、当時の人たちからの回答

・「しかし、この『小糸隠し絵』とかいう絵、よく見たら『盧生の夢』ネタですね。絵の中の人物が「ゴロン」と横になっているし!」 

・「小糸さんが髪を結い上げている部分。ここの南天の花! それと、この煙みたいなの!これが、南天の花の香りを表現してるし!」

・「確実だよ! 間違いないって! ところで、『盧生の夢』は『邯鄲の夢』という呼び方もしますよ。」

このように現代の人とは違い、当時の人々は容易に『小糸隠し絵』の本当のところを理解できたはずです。


○『小糸隠し絵』が現代人に理解できず、当時の人たちが理解できたわけとは

たとえば『盧生の夢』は江戸時代にはよく知られた話でしたが、『盧生の夢』のパロディともいうべき『金々先生栄花夢』(恋川春町)の大ヒットのせいで、蕪村が『小糸隠し絵』を描いた当時には『盧生の夢』は知らぬものなしの常識になっていました。
しかし、こういう常識は現代人は持ち合わせてはいません。

そして、南天の花の意味も、もちろん訳わかりません。
サクラの花とか、菊の花とか、バラの花とか、そんな有名なんじゃない訳だし、のど飴以外には話題のない地味な存在の南天、その花について聞かれても分からないのは仕方ないでしょう。

『小糸隠し絵』を理解するためには、当時の人のように『盧生の夢』と南天(の花の香り)の知識が必要です。ということで、この二つのものの説明に入りたいと思います。


○『盧生の夢』
『盧生の夢』の盧生というのは、ずっと昔々、中国の若者です。盧生は、貧乏で立身出世を望んでいました。そんな盧生が、趙の都、邯鄲(かんたん)という街で呂翁という仙人から栄花が意のままになるという枕を借りました。それで、居眠りをしたところ富貴を極めた50余年の夢を見ました。夢から覚めてみると炊きかけていた粟(あわ)がまだ煮えないほどの短い時が過ぎているだけでした。『盧生の夢』はそういう話です。『盧生の夢』は、『邯鄲(かんたん)の夢』『邯鄲の枕』などの題名でも知られています。
また、この話は唐の時代の故事『枕中記』が元になっています。

○南天の花の香り

図2 『南天漠蒔絵枕(なんてんばくまきえまくら)』、東京国立博物館蔵

 

『小糸隠し絵』の場合には、仙人が盧生に渡した陶器の枕は登場しません。代わりに蕪村は、南天の花の香りを登場させ、この南天の花からの香りが、『盧生の夢』で仙人が盧生に渡した陶器の枕と同じような不思議な力を果たしているという設定にしています。

ところで、「仙人の枕=南天の花の香り」なんていう常識は、現代人は全くもって持っていません。だから、混乱が生じます。しかし、蕪村の頭の中、また、蕪村と同時代に暮らした人たちの頭の中には南天という植物には、夢を巡って特別で不思議な力があるという知識が広く行き渡っていました。

たとえば、枕の下に南天の葉を忍ばせると悪い夢を見ないという言い伝えとか、悪い夢を見たら、床に南天を活けるとかいう言い伝えです。蕪村の時代に作られた『南天漠蒔絵枕(なんてんばくまきえまくら)』(18世紀)という枕が東京国立博物館にはあるそうです。そういうことから考えると蕪村の時代にも、「夢」と「南天」を結びつけて考えるのは珍しいことではなかったと思います。さらに、『盧生の夢』、『邯鄲の夢』の話ですが、盧生が使った枕が、南天の木でできた枕であったという話もあります。

さて、話を蕪村の「ゴロン」に戻しましょう。

○『金々先生栄花夢』のノリで蕪村は自身の『ゴロン』を描いた

いかに江戸の人間でも、この「ゴロン」と横になった蕪村と南天の花の香りが立ちのぼる様子をみせただけでは、これが『盧生の夢』の「不思議な夢」を見ている盧生とは思わないでしょう。

「ゴロン」は「ゴロン」、それだけでは『盧生の夢』「不思議な夢」とは連想がつながりません。
しかし、蕪村は『小糸隠し絵』を観るものにとっては「ゴロン」が『盧生の夢』「不思議な夢」につながる、少なくとも、そういう計算で、蕪村は『小糸隠し絵』を描きました。蕪村の計算の前提となっていたのが当時起こっていた『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』の大成功です。鳥山石燕の弟子でもあった、恋川春町の作画の『金々先生栄花夢』という黄表紙(大人向けの絵本)が当時大ヒットしていました。この『金々先生栄花夢』中で、恋川春町が「ゴロン」と『盧生の夢』を結びつける一枚の挿絵を描いていました。当時の人たちはその挿絵のイメージに慣れ親しんでいましたから、「ゴロン」から「不思議な夢」への連想を期待できたと言うことです。

さて、『金々先生栄花夢』の話とそこに描かれた「ゴロン」を実際に見てみましょう。

『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』は、金村屋金兵衛が金持ち和泉屋清三の養子となって栄華を極め、放蕩の末に追い出される夢を見るという『盧生の夢』のパロディです。安永4(1775)年刊行され、『小糸隠し絵』(1781−2)の描かれたころには大評判になっていました。

これが『金々先生栄花夢』の「ゴロン」ページです。主人公、金村屋金兵衛という名の、盧生の江戸版という人物が「ゴロン」と横になって登場します。

図3 『金々先生栄花夢』より「ゴロン」の場面  東京大学付属図書館霞亭文庫

 

○挿絵の紹介
主人公金村屋金兵衛が粟(あわ)餅屋の店先で粟餅ができるのを待たせてもらうことになりました。金村屋金兵衛は「ゴロン」と横になり、近くにあった枕を引き寄せると、早速、夢の世界に入っていきます。金村屋金兵衛の夢の世界は、漫画の吹き出しのようなもののなかに描かれています。吹き出しの中には、金持ちの和泉屋清三(どっかで聞いたような名前)の使いのものたちが、駕篭や車を従えてやってくる様子が文と小挿絵で描かれています。

金持ちの和泉屋清三に跡継ぎとして見込まれるというたぐいまれな幸運が訪れた主人公金村屋金兵衛の栄花に満ちた暮らしがはじまるきっかけを表した挿絵です。

○『小糸隠し絵』と『花鳥篇』

ところで忘れてならないことは、『小糸隠し絵』で蕪村が『盧生の夢』のストーリーをなぞるようなことはしなかったことです。蕪村は、短い時間なのに、一生という長い期間を実感してしまう、『逢魔時』的妖怪譚そういう「不思議な夢(or 夢の不思議さ)」の象徴として「ゴロン」をとらえたことです。


○では、「ゴロン」を使って蕪村が表現したものは何でしょう

「『月に泣く蕪村』を基に『小糸隠し絵』を読み解く」という題のエッセイに『人面樹』(鳥山石燕)などともからめ具体的に述べさせてもらいましたのでそちらを参照してください。

ただ、「いとによる」ではじまる連句がらみの内容については、まだ、もう一度こちらで整理してみたいと思います。

蕪村の『花鳥篇』「いとによる」ではじまる連句には、『小糸隠し絵』を示唆している内容の3句(第4−6句)が存在します。それは、連続している句であります。作者は、芸子、小糸本人、蕪村(夜半亭三世)、そして、蕪村に対して小糸のもとに通う資金を提供した蕪村の弟子、佳棠。佳棠は出版業者でもありました。


○「いとによる」ではじまる『花鳥篇』連句より、3句

第4句  表うたがう絵むしろの裏(絵の種類=隠し絵)

意訳「(普通の山水に見える)表が疑わしい、裏がある。(それは、隠し絵ですよね)」(小糸の)

この句は、『小糸隠し絵』の本質が何であるかを示しています。
つまり、隠し絵であるということです。


第5句  ちかづきの隣に声す夏の月(時=逢魔時)

意訳「わたし(=蕪村)の近くの人(=小糸)の隣に声がすると思えば、それは昇りかけの夏の月でした」(夜半亭・蕪村)

この句は『小糸隠し絵』で表現されている時刻を表しています。つまり、「逢魔時」ということです。沈んでいく西日が手前から画面を赤く染め、奥の方から満月が昇ってきます。

「逢魔時(おおまがどき)は、夕方の薄暗くなる、昼と夜の移り変わる時刻。黄昏どき。魔物に遭遇する、あるいは大きな災禍を蒙ると信じられたことからこのように表記される」
                             wikipedia逢魔時より

妖怪好きの蕪村には、「逢魔時」という題材には心引かれるものがあったのでしょう。
「菜の花や月は東に日は西に」(蕪村)という句、これも「逢魔時」を表現しています。

また、「逢魔時」を巡って、『小糸隠し絵』には鳥山石燕との新たなつながりをほのめかしているような部分があります。これは、図4として最後に示しておきます。


第6句  おりおり香る南天の花(設定=『盧生の夢』『邯鄲の夢』にならう)

意訳「折れて、また折れるように、南天の花の香りが漂っています」
(佳棠)

この句は、『小糸隠し絵』がどのような設定であるのかを示しています。つまり、『小糸隠し絵』は「ゴロン」と横になった蕪村が見た「不思議な夢」という設定ついての句です。今回の記事の内容に該当します。

以上

 

図4 鳥山石燕の『逢魔時』と『小糸隠し絵』部分


妖怪と寛政の改革
蕪村一門と『花鳥篇』を見舞った悲劇
和泉 清(俳句愛好家)
第一章 

今回は、鳥山石燕という人物についての話から始めたいと思います。今回の話は、びっくりの内容で、これまでの歴史の常識と言われる部分をひっくり返してしまうかもしれません。だから、読者の皆様が読んでいて何を読んでいるのかわからなくなり、迷子になったような気分になってしまう恐れがあります。それを防ぐために、事実関係をしっかりと確認しつつ、話を進めていきたいと思います。

鳥山石燕というのは、蕪村と同じ時代に活躍した妖怪絵師であります。鳥山石燕という人物は、蕪村作品、天明2(1782)年の『小糸隠し絵』について考える際に、しばしば登場しました。鳥山石燕は、安政年間から天明年間にかけて、妖怪図録集を数冊出版しました。

蕪村は図録集から着想を得て、『小糸隠し絵』と『新緑杜鵑図』を描いたと私は考えていました。それは、実際には少し違っていました。どういうことかというと、当時、鳥山石燕が弟子や仲間たちと生み出した妖怪運動、鳥山石燕の妖怪図録集から発した妖怪発想が存在し、それが大流行となっておりました。蕪村はこれに共感し蕪村一門の句集(『花鳥篇』)に妖怪発想を自分なりのやり方で取り入れたというのがより正しいと思います。

私見ではありますが、江戸天明年間のこの文化運動、大流行の中心にいた一人が、鳥山石燕という妖怪絵師であったと思います。さらにこの文化運動、大流行の中心に他人物の名をもう一人あげるとするならば、それは、蔦谷重三郎という本屋の主人であったのです。この文化運動、大流行の中心地は色街、吉原でありました。

○蕪村が影響を受けたと思われる鳥山石燕作品(妖怪図録集)

安永5(1776)年 『画図百鬼夜行』
同年         『今昔画図続百鬼』
安永10(1780)年『今昔百鬼拾遺』


鳥山石燕は、根岸に住んでいました。吉原からはそう遠くないところです。鳥山石燕のところには素晴らしい弟子が多くおり、中には、喜多川歌麿、恋川春町など時代の才能が存在していました。喜多川歌麿や、恋川春町などは、蔦谷重三郎が出版する黄表紙や狂歌本に挿絵や図版を提供していました。黄表紙とは? 乱暴な説明の仕方になりますが、最初に草双子というのがありまして、いまの子供の絵本のように童話、民話、おとぎばなしなどを載せて出版されていました。それが大人向けに進化したのが黄表紙というものです。黄表紙や当時人気のあった狂歌本は、文よりも絵が重要な役割を演じていました。つまり、現代の漫画のように大衆の知的好奇心をくすぐり、一方、砕けた内容の娯楽性の高い冊子本でもありました。黄表紙や、狂歌本の有力な蔦谷重三郎は、はじめ吉原の遊女の名を記した案内書、『吉原細見』の編集、販売で頭角を現しました。洒落本(黄表紙)や狂歌本でヒット作を次々に刊行していました。ほかに、洒落本作家の山東京伝や、天明狂歌の大田南畝という大物も、蔦谷重三郎のところから本を出していました。彼らも、吉原に出入りしており、蔦谷重三郎の吉原連やその他の俳句サークルのメンバーでもあったのです。そこには時代の才能がきら星のごとく存在していました。

洒落本(黄表紙)は荒唐無稽、SF的展開が特徴です。この鳥山石燕に起源を有するかのような妖怪発想による物語世界の構築法は、洒落本(黄表紙)に共通する作風、発想法でありました。妖怪発想は、さらに発展していき様々なバリエーションを生みながら発展を遂げていきました。

このように、吉原、蔦谷重三郎、鳥山石燕の妖怪、洒落本(黄表紙)、天明狂歌は、天明期の文化をリードし、表現する主要なキーワードのひとつでありました。

世間の大流行を受け、蕪村も妖怪発想の俳句集を作りたいと思ったとしても不思議ではありません。蕪村自身も、鳥山石燕に20年先駆け宝暦4〜7(1754〜7)年に『蕪村妖怪絵巻』を描いておりますので、鳥山石燕が描いた斬新な妖怪世界にも刺激を受け、妖怪発想に基づいて鳥山石燕や蔦谷重三郎の仲間たちが生み出していく新鮮な読み物に心を躍らせたでしょうから。

考えてみれば、蕪村一門も、京都の色街、島原とは深い関係があり、蕪村個人も芸子、小糸とのつながりもあり、また、『雨月物語』のような小説を書いた上田秋成のような人物に、多面にわたるつきあいがあったので江戸の流行の担い手たちが生み出していたものに素直に共感できたと思われます。

このように江戸からの刺激を受け、蕪村は『花鳥篇』を構想したと思われます。併せて、蕪村独自の発想で、『花鳥篇』とリンクした軸絵を2作描くことを思いつきます。これは、鳥山石燕や蔦屋重三郎を中心とするサークルへの共感を表明しめしています。つまり、『小糸隠し絵』と『新緑杜鵑図』。『小糸隠し絵』だけでなく、『花鳥篇』にも、色街の芸子が登場しますが、これも、江戸の作家たちが吉原の芸子たちとのつきあいを、隠そうとはせずに公開する姿勢に共通しています。

時代を飲み込む大波、寛政の改革の出版統制

しかし、洒落本(黄表紙)とか天明狂歌、その狂歌本とか天明期に爆発的に人気があったのに、いまでは、あまり知られていないのはどういうことでしょうか。

洒落本(黄表紙)の人気の失墜とか、天明狂歌の凋落は、第一に、寛政の改革が原因であります。様々な表現活動に対して寛容な姿勢を示していた田沼意次の時代が終わり、松平定信が政治を取り仕切るようになると、世の中の仕組みが一変してしまいます。寛政の改革の時代の到来です。

寛政の改革では、厳しい出版統制が行われます。市民たちの寛政の改革に対する批判を受け、批判の原因を洒落本(黄表紙)や天明狂歌に求めた施政者たちは、これに厳しい統制をかけます。松平定信のやり方は「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」という、陰湿かつ徹底したやり方でした。結果、天明狂歌界の大物、大田南畝は身の危険を感じ引退するようなことも起こります。

○寛政の改革の出版統制の例をいくつか挙げておきたいと思います。

天明8(1788)年、朋誠堂喜三二『文武二道万石通』で、文武奨励を風刺したとされ厳しい譴責を受けるました。天明9(1789)年、恋川春町は同じ内容の『鸚鵡返文武二道』を著し、恋川春町は取り調べを受け、のち怪死しました。

山東京伝は寛政3(1791)年、定信をモデルにした『富士人穴見物』や寛政異学の禁を揶揄した『孔子縞于時藍染』、『仕懸文庫』などの洒落本三冊が摘発されました。

京伝は手鎖50日の刑、版元、蔦谷重三郎は書籍絶版の上、財産半分没収という過酷な刑を受けます。以降、京伝は筆を折り、蔦谷は、錦絵中心の経営にシフトしました。

ところで、寛政の改革においては、喜多川歌麿の春画が、狙い撃ちにされました。そこで、歌麿は、筆を休め、栃木に身を隠しました。

蔦谷が錦絵に経営をシフトすると、栃木から舞い戻り春画をやめ、蔦屋から『浮気の相』『婦人相学十躰』『花撰恋の部』などの美人画シリーズを次々に生み出しヒットさせました。

江戸幕府は、風紀を乱すものとして喜多川歌麿の創作活動にたびたび制限を加えました。

寛政9(1797)年蔦屋蔦屋重三郎が亡くなりました。

文化元(1804)年喜多川歌麿は幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受けます。2年後の文化3(1806)年、喜多川歌麿は死去しました。

寛政の改革は天明7(1787)年から寛政5(1793)年まで続きますが、出版統制は松平定信の失脚の後もつづき文化14(1817)年までつづきました。


○寛政の出版統制とはどのようなものであったのでしょうか?

寛政の改革での出版統制は、享保の改革(1716〜45)出版統制に倣っています。

1)幕藩体制の維持に反する出版を禁ずる
2)武家についての記述を制限
3)幕府の政治に対する批判を禁ずる
4)贅沢で、豪華な出版物を禁ずる
5)風紀を乱す出版物の禁止

これに寛政の改革の出版統制では、次にようなポイントが重視されたと想像されます。
○脱・士農工商的傾向
鳥山石燕や蔦屋重三郎を取り巻く人々の身分を超えた自由な行き来は、為政者にはかって経験したことのない危険な兆候に思えたでしょう。

○「妖怪」
鳥山石燕が体系化した妖怪たちや、妖怪世界という設定を表現の手段として恣意的に用いる妖怪発想により、妖怪たちは黄表紙の登場人物となり、また、巧妙な設定により政治状況をも戯画化するという表現力を得ていくようになります。妖怪たちの政治的主張が、大衆にアピールするような場面が目立ってきます。為政者は、政治的発言力を持った妖怪たちが、非常に危険な存在となってしまう可能性があることに気づきます。作家の側としても、妖怪発想というのは、発想の奇抜さ、発想の自由さを保証しますので創作意欲につながりました。しかし、「妖怪の話なんだから!」という口実を付けることで、自由な表現が無制限に可能なような錯覚を覚えてしまいました。「現実のことを表現しているわけではないし、絵空事の世界であるから」と。これは、危険なことでした。為政者がこの口実を認めなくなったのです。万能の妖怪発想は制限を受け、作品は面白みのないものになっていきました。

第二章

蕪村も「妖怪」、風紀を乱す色(エロス)などの要素を盛り込んだ『花鳥篇』を作ったのですから、寛政の改革の取り締まり対象となりえたと思えます。

しかし、鳥山石燕や蔦屋重三郎など江戸の流行とは違い、蕪村一門や蕪村の『花鳥篇』には政治的な要素は見受けられません。

しかも、蕪村が『花鳥篇』を作ったのは天明2(1782)年でありますから、寛政の改革の5年ほど前と言うことになります。しかも、蕪村は天明3(1783)年に死んでしまっています。

しかし、それでも寛政の改革の出版統制は、蕪村一門の活動に影を落としたのは、間違いないと思います。相手が「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」という松平定信ですから、事態は深刻であったでしょう。考えてみれば、蕪村一門自体の構成も摘発の対象となりやすい体質を持っていました。というのも、為政者からすれば、蕪村一門は役者や芸子もあつまる脱・士農工商志向の不逞の輩の集まりであり、また、京の色街、島原で活動する蕪村一門は、吉原に集っていた江戸の危険分子と何ら変わりの無いものであったのです。


○寛政の改革前後の蕪村一門の動き

天明6(1786)年8月25日、将軍家治死去。
  このころ田沼意次失脚。
天明7(1787)年、4月、几董篇『続一夜四歌仙』成る。
  この際に『花鳥篇』『小糸隠し絵』と結びつく「いとによる」の連句十二句省略される。
天明7(1787)年5月 松平定信、老中に就任。寛政の改革始まる。
  春以降、 梅亭(九老)・月渓(呉春)亡師(蕪村)の娘 くの の再婚の資とすべく蕪村遺草に絵を添えて頒つ。『嫁入手』
寛政元(1789)年
  5月8日、几董が(蕪村の墓所のある)金福寺に墓参。
  5月16日、清了尼(蕪村妻とも)几董を訪ねる。
  5月18日、清了尼が肴を土産に几董を訪ねる。
  夏 蕪村一門の有力パトロン百池、金福寺に墓参、句文を手向ける。
「目には雨腹には麻の乱レ 哉   百池拝」
  8月 五雲(不夜庵二世)が江戸に帰る意向を示し、蕪村の妻清了尼が島原不夜庵を訪うて慰留する。
  10月23日、夜半亭三世几董、酒造業士川の伊丹有丘別店で急逝。

(迫り来る一門存亡の危機を感じ取り、対応に奔走する蕪村一門の面々。蕪村の娘 くの を嫁に出し後に憂いを残さないよう奔走する梅亭、月渓。几董、蕪村妻の清了院は善後策を協議し、一方では、島原の店をたたんで去る仲間。そして、夜半亭三世の逝去)

この期間、蕪村一門内で、多くの話し合いがもたれたように思われます。

蕪村一門は、「鳥山石燕」「妖怪」などのトピックは江戸で摘発を受けた黄表紙を連想させるために絶対に口にすることはしてはならないと考えたでしょう。ですから、『小糸隠し絵』や『新緑杜鵑図』をめぐる種明かしは、これも絶対にしてはならないことになっていったことでしょう。知っているものは、箝口(かんこう)令が出されたでしょう。

寛政の改革、出版統制という非常事態において蕪村一門がどのように対応していくべきかなど、合意・決定しておくべき事柄が少なからず存在していたと思われます。

以上の内容は、いまのところ結局は想像の域を出ることはないかもしれません。しかし、寛政の改革の頃、『小糸隠し絵』と結びつきのある箇所が『花鳥篇』から削除された事実。また寛政元年10月23日、蕪村の後を継いだ夜半亭三世(几董)が俳諧興行中に突然死んでしまい、その後は蕪村一門の活動は低迷してしまったという事実。これらは、動かしがたい事実であります。

○残された人たち

実際に、蕪村一門は寛政の改革出版統制の摘発を受けたのか?
実は、摘発を暗示するような状況証拠がいくつか存在しています、それを最後に見ていきたいと思います。

これについて考えるために、関西において寛政の改革を体験した木村蒹葭堂、上田秋成のケースを見てみたいと思います。これはよいヒントとなります。

木村蒹葭堂(1736〜1802)、中村真一郎の著作で知られている最大の文化サロンの経営者でありました。
寛政2(1790)年、木村蒹葭堂は、密告で酒造統制に違反したとされてしまいます。木村蒹葭堂は町役人を罷免され、伊勢長島城主増山雪斎をたよりに長島川尻村へ転居します。これは、幕府による謀略で寛政の改革の一例として見られています。木村蒹葭堂は9万人の来訪者という人脈(ネットワーク)を持っていたので、株仲間の解体という狙いが一番なのでしょうが、情報が士農工商、身分制度の壁を越え自由に行き来する木村蒹葭堂のサロンは、幕府にとって押さえておくべきターゲットであったかもしれません。

木村蒹葭堂の友人に上田秋成(1734〜1809)がいます。上田秋成は蕪村の一門と深い関わりを持つ人物です。上田秋成の伝記には、蕪村一門と寛政の改革で負った傷の痕跡を暗示するかのようなエピソード、行動がいくつか見られます。

この上田秋成は、死の2年前に、自分の蔵書と著作物をまとめて、古井戸に投げ捨てました。このことを記した自分のエッセイ『胆大小心録』の中で興味深い話をしています。

「宋が滅んだ時に、鄭所南という人が、大いに悲しんで、家から去って、寺院に入り葷食を避け、北に向かって拝せず、一是居士の伝というものを書いて、憂さを晴らしたという。また、心史というものを書いて、石の箱に納め、古井戸に落として、その井戸を埋めて言った。『後世、この書が出てきた時、きっと太平の世の中になっているだろう』と。その心史が明の崇禎帝の治世後期に発見され人の目に触れたという。盗賊(李自成)が明を滅ぼし、韃靼(清朝)に攻められ、太平とはいうけれども、(禎所南が)減の地の北に向かって拝せぬと言った当時と何も変わらない。ならば、翁(秋成)が無益と見なした書も、心史も、同じようなものだ」

上の文を意訳してみると「鄭所南にならって、今の世の中で言えないことを書いて古井戸に投げ捨てたのだけど後の世の中の人が見つけ出してくれて、事の真相を知ってくれたらうれしいな」となります。

上田秋成のこの文章、寛政の改革への批判に思えてならないのです。文化4(1807)年、寛政の改革の出版統制がまだ継続中の時期でした。

上田秋成は、『雨月物語』の作者として知られています。先にも言ったように、上田秋成は、蕪村一門の中核を構成するメンバーであったのです。どういうことかというと、上田秋成は高井几圭という人物に俳句を習いました。その息子は、高井几董といい上田秋成の友人でありました。この高井几董という人物が、蕪村一門の一番弟子というか、共同経営者という存在でした、高井几董は、蕪村の後を継いで、夜半亭三世を襲名しています。しかも、上田秋成自身、蕪村とも親しくつきあい、蕪村の弟子の月渓(四条派の創始者、呉春)も、上田秋成の数少ない終生の友人でありました。上田秋成は、蕪村の追悼句集にも追悼の句を寄せています。つまり、上田秋成は、本当に若い時期から、寛政の改革の頃まで長期にわたって、いろんなところで蕪村一門とつながりがあったのです。

そういう上田秋成のエッセイに、俳句サークルとしての蕪村一門のネタがほとんど(おそらくは、全く)登場しないという不思議。蕪村一門とは、時間的にも長く、密度も濃いつきあいがあったのに、上田秋成のエッセイ『肝大小心録』には、池大雅のエピソードは詳しく登場するのに、蕪村は絵の値段的なものが登場するだけで、蕪村一門やその活動についてはまったく言及されません。上田秋成にとって、蕪村一門を巡るトピックが非常に危険なネタであったのか? 上田秋成は、避けようとしているように思われます。

月渓(呉春)とのつきあいについては上田秋成のエッセイのネタとなっていますが、これは蕪村一門時代とは違う、ずっと後年の(寛政の改革に触れないような)出来事だけを取り上げております。

こんな上田秋成の目の前に、大田南畝が突然現れて、二人は大親友になります。

若者でもあるまいし、死を間近に控えた老人同士が、初対面で心を打ち解け合って、親友になるなんてことがあるのでしょうか? そういうことがあるのは、背後に大きな利害関係が存在しているということ。つまり、二人が仲良くなった裏には、今なお続いている出版統制を通して受けた共通の体験があったのではないでしょうか。大田南畝は天明狂歌の一件で、寛政の改革の摘発やその恐怖を経験しています。そして、蕪村一門のところで目撃した出版統制での恐怖体験が今なお消えないでいるのではないでしょうか。となれば、大田南畝が、この上田秋成と初対面でも親友になれたのは納得できます。

大田南畝には、大阪で親友になったもう一人の人物がいます。それが、木村蒹葭堂です。木村蒹葭堂自身も、前に言いましたように寛政の改革で摘発されています。

上田秋成、木村蒹葭堂、大田南畝の関係は、寛政の改革つながりでとても意味深なものに思えます。

さらに、おまけで言えば、
「『諸道聴耳世間猿』(明和3(1766)年)を書いたのはあなたか?」と人に聞かれて上田秋成は激怒します。上田秋成は、彼に絶好を申しつけます。若い頃(昔)のことを詮索されるのが無性に嫌と感じる上田秋成。彼の過去には、掘り起こされてしまうと、大きな不利益が生じるような真実が存在していたのでしょうか?

○結論

『小糸隠し絵』『新緑杜鵑図』と『花鳥篇』のつながりが秘密となり、現代に至るまで放置されたままになっていた理由は、寛政の改革の出版統制に大きな原因があるのではないかということを検証してみました。

本当のところは、まだはっきりしないですが、皆さんが、蕪村と江戸で起きた文化上の大フィーバーとのつながりについて、興味を持っていただけたら幸いです。

参照
本エッセイは、インターネット上にあります『江戸の三大改革と妖怪文化』(香川 雅信)という論文にヒントを得ました。
上田秋成『胆大小心録』98項の訳は、Ameba blog 『むかしのはなし』の記事を参考にしました。


月に泣く蕪村』を基にして『小糸隠し絵』を読み解く
和泉 清(俳句愛好家)
以降、図版以外のページ数などの参照箇所は『月に泣く蕪村』(著:高橋荘次 春秋社刊)に則ります。

<図1>



最初に確認します!
これがこれまで『小糸隠し絵』と呼んできた正体不明の隠し絵です。
これは、蕪村の作と思われますが、これは、蕪村の連句と深く結びついています。

以下がその連句『花鳥篇』の該当部分であります。<図1>にて確認ください。

表うたがう絵むしろの裏  (小糸)

(試訳)その絵は、一見すれば山水画ですが、隠し絵という裏がある。そういう絵ですよね。

ちかづきの隣に声す夏の月  (夜半亭蕪村)

(試訳)私(=蕪村)の近くの女の隣で声がすると思えば、それは昇りかけの夏の月でした。そういう絵ですよね。

おりおり香る南天の花   (佳棠)

(試訳) 折れてまた折れるように南天の花から香りが立ち上っている絵ですよね

以上、花鳥篇の「いとによる」連句の部分より


では本題に入りましょう!

これまで、蕪村自身が芸子、小糸に描き与えると約束(天明元年5月26日p.178)をしていたこの絵について『小糸隠し絵』という名前で呼んで、これまでに幾つかの報告を行いました。

しかし、この『小糸隠し絵』という絵にはいったい何が描かれているのか?

『小糸隠し絵』にはどういうメッセージが込められているのか?

それとも、『小糸隠し絵』ただ小糸を喜ばせるための単なるきれいな絵にとどまっているのか?

このような疑問には触れないようにしてきました。

というのは、この絵が描かれてから230年以上の月日が過ぎているので、今さらこのような疑問については、解明は困難であるように思われたからです。


しかし、幸運なことにこのような疑問に対する答えやヒントが高橋荘次氏の『月に泣く蕪村』という本には多く載せられているということが分かりました。ということで、さらに繰り返しこの本を読んでみました。そして、今ようやく、頭の整理が出来てきましたので、『小糸隠し絵』の謎の解明を行ってみたいと思います。


まずは、この高橋荘次氏の『月に泣く蕪村』という本をもとにして、夕日が画面を赤く染める一方で満月が昇る逢魔時(=大禍時)という時刻を描いたという『小糸隠し絵』がどのような絵なのか、また実際には何を描いたのか見ていきたいと思います。


この『小糸隠し絵』は、三つの部分に分かれます。<図1>を見てください。一つは、中央の小糸を描いたらしいエリア。もう一つは、中央下の「蕪村」と書かれた、蕪村を描いたらしい部分。そして、添画の「妖気」と書かれた左下、怪しげな<木になる>生き物たちを描いた部分のあわせて三つの部分です。ところで、この怪しげな<木になる>生き物たちの部分は答えから先に言いますと、下から猿、獺(かわうそ)、鼬(いたち)を描いたものです。そして、これについては後で詳しく説明します。ということで、まずは小糸の部分と蕪村の部分を集中してみていきたいと思います。<図1>

老狐は化して美女になる(伝奇) p.56

小糸らしい女性を描いた部分では、逢魔時(=大禍時)が訪れ魔物のたちが活動を始めている様子が描かれています。老狐は、さっそく美女に化しました。ここには老狐が化けた美女の様子が描かれています。この絵では、美女の頭部あたる南天の木から南天の花の香りが立ちのぼっています。

この南天の花の香りは、老狐、つまり奇異の現象を背後で引き起こす奇異の動物の存在を暗示しています。というのも、香りというものは、目にはしっかりと見ることが出来ないものの存在を伝える力があるからです。


狐ハ蘭菊(らんぎく)ノ叢(くさむら)ニ蔵(かく)ル 白楽天 p.55


蘭の香や、菊より暗(くら)き辺(ほとり)より 蕪村 p.56

つぎに、挿画の中で「蕪村」と表示した部分について説明したいと思います。

私は今までこの絵は小糸を描いた絵であると思い込んでしまっていました。蕪村が小糸に描き与えた絵でありますから、本来はこの絵の主題は小糸であるのが当然なハズです。

しかし、実はこの絵の主題は老狐が化けた小糸らしき女性ではなく、その美女の下方で横になっている「蕪村」のエリアに描かれた蕪村なのです。さらにいえば、注目すべきは描かれた蕪村の視線であります。この視線がこの絵の主題であり、この絵が描かれた理由であります。なぜかということについては、最後まで読んでもらえば分かります。

ということで蕪村の視線に注目してください。横になった蕪村の少しかしげた顔からの視線は蕪村の左の月に向かっていますね。そして、蕪村の視線の先にあるのは朧(おぼろ)月であります。

「月に泣く蕪村」

じつは月を見て、その月が朧月であるということ。これは蕪村が涙していることを暗示しています。月は月に泣く人の涙で曇るのでおぼろ月となるという発想です。たとえば、蕪村はいろんな形で月に泣く行為を表現しています。

月見ればなみだに砕く千々の玉 蕪村 p.79

盃に月を砕くや夜もすがら  蕪村  p.79

瀟湘の雁の涙やおぼろ月  蕪村  p.90

そして、この蕪村が月に泣くという行為、蕪村の涙がこの絵の中心的な主題であります。蕪村の涙を「月に泣く蕪村」を中心に考えるとこの絵全体が説明の行くまとまりのあるものになります。小糸を中心に考えても絵の説明の助けにはなりません。

ということで、この絵は『小糸隠し絵』ではなく、『月に泣く蕪村』と呼ぶべきであるかもしれません。たしかに、老狐が化けた小糸らしいの女性の姿は、スペースで見れば大きな部分を占めますがしょせんは老狐が作り出した幻影でしかないのです。そういう位置づけになります。(この幻影は小糸ですらないかもしれません)その理由は次の通りです。

○『月に泣く蕪村』の意味するものは何でしょう?

高橋荘次氏の『月に泣く蕪村』p.91に次のような文章があります。

「月」のイメージは蕪村にとって母性象徴の意味を持っていたようである。だから、亡母を恋慕して月に泣き、また、月に女の気配を幻想して悲嘆する。それは月への感情が母性への代償的行為であったことを思わせる。

この絵は蕪村の約束にもとづいて小糸のために描かれたものですが、同時に蕪村が描いた小糸は外面的には小糸の形をとった蕪村の母の姿でもあったといえるということです。

○蕪村の母親? 小糸らしき女性を蕪村の母とみる根拠は何でしょう?
それは、狂女は蕪村が母親に対して抱いていたイメージであるということです。

藪入りの宿は狂女の隣かな 蕪村 p.60

小糸らしき女性の様子を見てください。視線をたどってみてください。小糸らしき女性の視線は月には向かっていません! 放心したように虚空をさまよっています。

この女性の様子にはどこか狂女的な要素があります。

くりかえしますが、このように狂女的な要素は、蕪村にとっては母親のイメージに結びついています。

麦の秋さびしき貌(かお)の狂女かな 蕪村 p.58

更衣狂女の眉毛いわけなき  蕪村  p.58

本来的にも、蕪村は、男であれば五助と名付けたような、また蕪村自身の俳画に登場するような人情味のある、愛されキャラを好み、女性であれば狂女を好んでいました。

高橋荘次氏の『月に泣く蕪村』p.57に次のような文章があります。

五助も、狂女も俗に最も遠い存在だったからである。世間から馬鹿にされ忌みきらわれて世間の埒外にはじき出された存在だっただけに、五助と狂女は蕪村の美意識を掻き立て、メルヘンの世界をふくらませずにはおかない。それは蕪村の心に一番近い、心なごむ存在だったのである。つまり、俗とは無縁の五助や狂女の純粋な魂は、蕪村の暗い孤児の心を洗い清め美しい協和音を奏でさせる魂だったということである。俗人の思惑などいっさい切り捨てられた清浄の世界であり、阿弥陀仏の浄土に近い世界である。

狂女に対するこのような感情は、やはり蕪村が持っていた母に対するイメージに由来すると思われます。

ところで、この絵で蕪村が泣いたのは母親のためだけではありません。

泣いた理由やこの雰囲気がどのように醸成されているのかのヒントは、<図1>の左下の部分、「妖気」という部分にも暗示されています。

この「妖気」の醸成には三種の動物が大いに関わっています。

それは、「妖気」のエリアに潜む猿と獺(かわうそ)と鼬(いたち)です。<図2>

ところで、蕪村は猿と獺と鼬の姿をストレートに描かずに、当時流行っていた鳥山石燕の妖怪図集に掲載されていた『人面図』<図2>からヒントを得てひと工夫加えてこれらの動物をこれも隠し絵として描いています。

参考までに、猿、獺(かわうそ)、鼬(いたち)が喚起するイメージをまとめて次に書きます。

<図2>


<<猿>>

猿三声我もまた月に泣く夜かな 蕪村 P.80

猿の郷愁の涙に……蕪村も……

壬生寺の猿うらみ啼けおぼろ月 p.88


蕪村が、亡母に対する強い思い入れを、壬生寺の猿楽の舞台の猿面の演者に対して爆発させた句

<<鼬(いたち)と獺(かわうそ)>>


鼬や獺は人をだます怪異の動物 p.51

破産などの喪(ほろ)び予兆、前兆、蕪村の故郷の荒廃を暗示

『農家飼馬図』(蕪村)の鼬(いたち)

麦秋や鼬(いたち)啼(な)くなる長(おさ)がもと 蕪村  p.50


獺(かはをそ)の月になく音(ね)や崩れ簗(やな) p.80 本文


(まとめ)

この絵は、小糸との約束に基づいて描かれた絵ではあります。

しかし、実際に描かれたのは、遠き昔に喪失し廃墟となった自分の故郷、つまりかつての自分の居所であった場所のため、あるいは、幼くして別れた母を想い月に泣く蕪村自身の姿が描かれています。

絵全体は月に泣く蕪村を中心に、多彩な泣きが暗示的に表現されていますが、ただ暗いだけの絵ではなく、小糸らしい女性の姿を中心に華やかな一面も持った絵に仕上がっています。

この絵には、月になく蕪村が象徴する深い哀しみがある一方で、小糸のらしい女性の姿として描かれた艶やかさには、蕪村の心の「老当益壮」という「壮麗」が同居しており、全体にバランスのとれ、筋の通った、素晴らしい作品と見ることが出来ます。


望郷の念から還って来る与謝蕪村
毛馬一三
江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていないのだ。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

?<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪に下って来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩いてみても、30分ほどもかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬村には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったとしか思えない。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」は、大阪市立大学と共同し今年の2016年に多彩な「蕪村生誕300年祭行事」開催を進めている。

先行事業とし今年1月23日、毛馬の淀川神社・地元淀川連合町会・蕪村通り商店街・地元俳句愛好家と共同事業として、「氏子の蕪村が幼少の頃と江戸へ下るマ迄に参詣し続けた「淀川神社」に、「蕪村銅像を建立」し「除幕式」を行った。

この自分の銅像を観て、蕪村が未還だって生誕地毛馬町に還ることが出来たのだ(朝日新聞)。これを知った蕪村フアンや地元の人が、大勢神社に銅像を見に来ている。先行事業が実を結んだし、蕪村を喜ばせた。

次の事業は、先述の大阪市立大学の村田正博教授と共同して5月1日(日)午後1時から、都島区民センターで、学者や俳句会主宰者などが「蕪村生誕300年を祝い」「俳句の面白さやつくる愉しみ」の講演や討論を行う「シンポジューム」を開催することだ。朝日新聞記事でこれも読んだ大阪府下や地元の人から「参加する」ための問い合せの電話が、驚くほど多くやってくる。歓喜だ。蕪村生誕300年祭事業にムードは盛り上がってきた。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでもこうした「蕪村生誕300年祭」事業を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。まだ事業の計画は進んでいる。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、淀川神社に「蕪村魂」だけでも還って来て貰いたいと思っていたことが実現するだろう。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を生誕300年後に現実に?いでやることが、筆者の重き願いでもある。(了)


鎖国寛政の改革と 〜『小糸隠し絵』の南蛮趣味〜
和泉 清 (俳句愛好家)
どういう話題かというと、遠近法と陰影法の話です。

鎖国以前には、日本においても西洋の先進的な絵画の画法、つまり遠近法や陰影法が宣教師らによって日本に伝えられていました。

南蛮屏風とかが良い例です。あと、信長を描いた写実的な肖像画などもその一つだと思います。


残念なことに、遠近法や陰影法は南蛮文化(=キリスト教)と結ぶつくものとして鎖国時代の江戸の文化においては忌諱されました。そして、文化史上において途絶えてしまったのです。

しかし、江戸も時代が進むにつれて、遠近法や陰影法が復活し始めました。それは、長崎出島での外国との交易を通して日本にもたらされました。

遠近法や陰影法は、こんどは南蛮画法の形ではなく、学術研究のための写生のための技法として、あるいは中国の一流派としての南蘋(なんぴん)派の画法、手法としてもたらされました。

これには、蕪村と同時代(田沼意次の時代)の人、平賀源内(1728年-1780年)の活躍がその契機になったとされています。

しかし、鎖国の江戸時代においては正面切って遠近法や陰影法を用いて絵画を描くのは暗黙の了解としてご法度であったようです。しかし、学術用途と南蘋(なんぴん)派以外で遠近法や陰影法を用いるのは鎖国の江戸期においては非常な危険を伴う行為だったようです。

平賀源内は油絵風の『西洋婦人図』という絵を描いています。しかし、それは南蛮屏風に見られたような遠近法や陰影法を前面に出したものではありませんでした。


『西洋婦人図』

また、後の時代になって平賀源内の流れをくむ司馬江漢(1747年- 1818年)という人がいました。彼は江戸時代に西洋画を描いた先駆者ですが、遠近法や陰影法を自在に駆使していても南蛮屏風などの雰囲気をほうふつとさせるものではありせん。(下段記:資料1)

ところで、「蕪村」は南蘋(なんぴん)派の画風の『野馬図』など名作をものにしています。ということで遠近法や陰影法という西洋技法についても通暁していたと思われます。そして、「蕪村」の遠近法や陰影法の探求は南蘋(なんぴん)派の習得で終わることはなかったようであります。


『野馬図』

この「蕪村」はさらに進め、遠近法や陰影法を大いに用いた『南蛮趣味』の二枚の絵を描いていたのです。

・一枚目の強烈なのが『小糸隠し絵』です。
・二枚目は穏健でありアリバイ工作をほどこしてるが、遠くの小さく見える杜鵑など遠近法や陰影法を駆使している『新緑杜鵑図』というわけです。

      *      *

これまでに『小糸隠し絵』や『新緑杜鵑図』と鳥山石燕『逢魔時』図とのつながりについて書いてきました。

「蕪村」は『小糸隠し絵』や『新緑杜鵑図』を描くにあたって鳥山石燕のほかのいくつかの絵からつまり、鳥山石燕『画図百鬼夜行』シリーズからモチーフを手に入れています。具体的にはどういう絵から『小糸隠し絵』や『新緑杜鵑図』が作られたのか推理してみるのも面白いと思います。お勧めします。

このように『小糸隠し絵』の見てみれば、見るほど、『小糸隠し絵』はいろいろと面白い事実が明らかになってきました。

しかし、見れば見るほどに鳥山石燕やいわゆる蕪村風とは違った匂いというものが『小糸隠し絵』流れてきて鼻についてしまいます。その匂いのもとを冷静に分析してみますと、それは、この絵を強烈に支配する遠近法や陰影法を運用した結果の『南蛮趣味』ということにあることがわかります。

「蕪村」のこの『小糸隠し絵』を見た人の中に、「これは『モナリザ』によく似ている」と感想を漏らした人がいます。しかし、私はこの絵は『モナリザ』には全く似ていないと思います。
そうではなく、そう思わせるのは『小糸隠し絵』が『モナリザ』に似ているということではなく、『モナリザ』を描く上での実施された法則、手法、技法と同じものが『小糸隠し絵』を描く上でも実行されたからということであると思います。つまり、徹底した遠近法や陰影法からくる『小糸隠し絵』の印象がそうさせているのだと!

『小糸隠し絵』の場合、鎖国の世の中の淡泊な絵画にあっては異例というか、大いに違和感を感じさせるほど、蕪村の遠近法や陰影法の肉感あふれる表現は徹底しております。そして、そこから南蛮風の雰囲気か醸し出ています。これは、鎖国の江戸時代にはほかには例が見られなかったものです。(下段記:資料2)

そう考えると、遠近法や陰影法を大いに活用した『小糸隠し絵』は鎖国の江戸時代にあっては「蕪村一門」にとって大変危険な存在でもあったというのがここでも分かります。繰り返しになりますが、『小糸隠し絵』には南蛮趣味(=キリスト教風)を想起させるものであるからです。

寛政の改革という出版界(=当時のマスコミ)を標的とする粛清の嵐が吹き荒れる時代にあって、百歩譲って小糸スキャンダルに目を瞑(つぶ)れても、幕府の大方針である鎖国の趣旨に反する手法、遠近法や陰影法で描かれた南蛮趣味の『小糸隠し絵』は蕪村一門にとって絶対に表に出してはいけない絵であったのです。


○「蕪村」の友達、応挙と遠近法や陰影法

応挙は蕪村と同じく京都に住まい、友人として深いつながりがありました。この応挙も遠近法や陰影法について精通していました。これは、(資料2)の応挙の項目を見てもらうとわかります。

「蕪村と応挙」、この二人の間に遠近法や陰影法についての知識のやり取りがあったのでしょうか? とくに、(資料2)の1780年の『京都』という屏風絵は同じころ描かれたとみられる『新緑杜鵑図』を雲や遠近法の点で思わせるものがあります。

同じく(資料2)の応挙『雪松図屏風』の陰影法は『小糸隠し絵』の陰影法と共通しています。ただ、応挙の場合は南蛮趣味(=キリスト教風)を匂わせるようなことは極力避けているようです。


      *      *

<資料1>
平賀源内の画業について
『平賀源内記念館』というサイトからの引用です。
http://ew.sanuki.ne.jp/gennai/hiragagennai/index.html

画家
『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』巻之六に「蔗(しょ=さとうきび)ヲ軋(きしり)テ漿ヲ取ル図」があり鳩渓山人自画としている。本草学においては真実に近い描写が必要で、『物類品隲』においては 南蘋(なんぴん)派の宋紫石に絵を描かせている。写実的な西洋画に強く惹かれたことは間違い無く、第2回目の長崎遊学の時自らが西洋画を描き、実技を身につけたと思う。それが神戸市博物館蔵の「西洋婦人図」である。

その西洋婦人の襟の青色は西洋の合成顔料=プルシアンブルーで、源内は『物類品隲』の中でベレインブラーウと言って取り上げ、自らも使用し、それが秋田蘭画、更には北斎の富嶽三十六景に使われる青色の先鞭をつけたのである。

その2年後秋田へ鉱山指導に招かれた折、角館の宿で小田野直武に西洋画の陰影法・遠近法を教える。それがきっかけで小田野直武は江戸に出て『解体新書』の挿絵を描き、西洋画法を身につけ、秋田の地に蘭画が広まるのである。

秋田藩主佐竹曙山の『画法綱領』と司馬江漢の『西洋画談』が共に源内の弟子であるところの画論から源内のそれも類推される。
南蘋画→秋田蘭画→司馬江漢の銅版画・油絵と続く日本西洋画の流れの源流に源内は居たのである。


<資料2>
応挙と遠近法や陰影法についてのホームページ

応挙と遠近法や陰影法については下のホームページの上、三分の一あたりに出ています。そのた様々な絵師と遠近法のかかわりについて具体的に書いてありますので非常に参考になりますし、蕪村の『小糸隠し絵』における遠近法や陰影法が当時としてはいかに突き抜けて、進歩的であったか容易に理解されると思います。
『日本における遠近法絵画の歴史』というページです。
http://homepage2.nifty.com/tisiruinoe/enkinho.html


蕪村没後のことについて 〜『小糸隠し絵』の運命〜
和泉 清 (俳句愛好家)
『小糸隠し絵』および『新緑杜鵑図』という2作の絵画と『花鳥篇』とのつながりをこれまで検証してきました。そしていくつかの事実を明らかにしてきましたが、どうしてもここに素朴な疑問が湧き起こって決してそれを止めることが出来ません。そして、これについては多くの人が同じ思いでしょう!

これだけの秘密が230年以上もの間どのような事情で秘密にされてきたのか?

この事情を物語るその事実らしい物はあります。つまり、蕪村の死後すぐに几董らによって『花鳥篇』の『小糸隠し絵』に関係する部分が削除されて伝承されることに
なったということです。しかし、私たちに分かるのはここまでです。

もう少しでも小糸のことが分かったら、蕪村の死後、小糸がどのような人生を送ったのか知ることが出来たのであれば『小糸隠し絵』の伝承については重要な事実がわかりそうであります。しかし、いまのところそのような資料は見つかってはいないようです。

蕪村と小糸関係については高橋庄次という研究者が詳しく調べられて『月に泣く蕪村』という本の中で詳しく述べられています。この本に書かれていることの中に、小糸と蕪村の恋愛と『花鳥篇』とのつながりについての分析があるのですが、推論も含め『花鳥篇』の本質に迫っているように思え非常に驚いてしまいました。この作者が『小糸隠し絵』の存在を知ったなら全ての謎解きをしてくれそうに思えました。

ところで、確認しておきたいことですが小糸と蕪村の関係です。資料を読んでみても小糸と蕪村が決定的な決別に至るということがあったとは思えません。

『花鳥篇』で小糸との破局発言ともとれる内容があるので、小糸と蕪村との関係は『花鳥篇』を作り上げる過程とその直後(天明2年5月頃)破局が起こってそうにも思われるのですが、蕪村は死ぬ年、天明3年の5月まで手紙の中でなんども自分の贔屓芸子として小糸について言及が繰り返されて行きます。

その様子からすると蕪村と小糸との関係は『花鳥篇』前後の熱狂を頂点としていくらか冷却した状態に落ち着いたかも知れないけど決別などという破局は起こらなかったように思えるのです。


○小糸スキャンダル

では『小糸隠し絵』、『花鳥篇』を巡る謎の手がかりはもう私たちには残されていないのでしょうか。

実は、この謎を解く大きな手がかりが存在しているのです。それも意外に身近なところに!

手がかりは『花鳥篇』それ自体にあります。しかし『花鳥篇』を小糸、蕪村の視点から見るならばそこから謎の手がかりを読み取ることは不可能です。

結論から言うと、謎を解くためには、小糸、蕪村の事情ではなく蕪村一門、つまり彼が率いる俳句集団夜半亭一門の経営基盤、社会における彼らの位置に注目すべきだと思います。

       *       *      

蕪村の時代には蕪村が率いる夜半亭の一門には花街との交流が少なからずあったようですし、江戸時代は男女の関係においてはかなりオープンであったように言われています。

しかし、一門の末端のお弟子さんにとってもオープンな考え方は浸透していたでしょうか?

それは、弟子の道立が蕪村と小糸との関係について意見するということが起こり、それに蕪村が反論できなかったところを見ても江戸時代において人が生きるべき『建前』というのは大事にされていたなと思われます。

江戸時代という時代には、人が行きるべき『建前』を踏みにじるような真似をしても蕪村のまわりの芸術家仲間は文句は言わなかったでしょうし、蕪村といっしょに花街に通うこともあったでしょう。

しかし、夜半亭の名を継承した蕪村に対して名もない末端のお弟子さんたちは蕪村にたいして清く正しい人物であって欲しいと願っていた人も少なからず居たはずです。というか、一門の末端の人たちの多くは、蕪村が『奥の細道絵巻』の作者にふさわしい清く正しい人物であると信じていたしょう。

ですから、蕪村と小糸を巡るスキャンダルは一門のものにとって面白くなかったと思われます。

このような事情から想像すると大阪の梅女が蕪村の元に送ってよこした『いとによるものならにくし凧(いかのぼり)』という句は小糸に対する嫉妬心もあるかもしれませんが、一門を代表して蕪村に小糸との関係の行き過ぎを警告しているのではないでしょうか。

その梅女の抗議の句をネタにして小糸がらみの歌仙を巻こうとした蕪村の行為を一門のものたちはどのように見たでしょう。

蕪村の不道徳な開き直りに多くの者が憤りを感じたはずです。

       *       *      

ついに一門の蕪村に対する憤りは形になって表れました。蕪村と小糸のやりすぎに反発の気持ちを持った者たちは『花鳥篇』に対するボイコットを行ったのです。

当時、『花鳥篇』の出版の費用を賄(まかな)ったり、儲けがあるとするならば、それは『花鳥篇』に俳句が掲載された人からいただく掲載料によるもので今日のように一般の人々に『花鳥篇』を売って儲けるというのではありませんでした。なかには、このような冊子に掲載された自分の句や名前を看板の一つにして俳句師匠として弟子を取り月謝をとっているものもいたと思われます。だから、蕪村という夜半亭の一門の長であり出版責任者には、自分の弟子や知人に恥じることなく紹介できる人物であってもらいたいと思うのは当然のことなのです。

『花鳥篇』に自分の句を掲載された人の多くが掲載料の支払いを拒絶しました。

払ってもらえない掲載料に蕪村は困惑しました。掲載料の不払いは蕪村の愚痴になりました。また、送られてこない掲載料に、蕪村は『花鳥篇』を再送し、蕪村自身は間違えていないことを確信していても、間違えて発送したとして詫び、暗に掲載料を再請求しようとしたりした手紙も残っています。(天明2年7月17日 布舟宛)

小糸スキャンダルは蕪村個人の問題ではなく、夜半亭一門の信頼が大きく揺らいだという問題でもありました。几董など夜半亭の中核を担う人たちは、永続的安定的に一門を運営していくためにはできれば『花鳥篇』がなかったもことにする、あるいは引っ込めてしまう必要がありました。しかし、娘の結婚式に芸者を呼び、何日も騒いだりするような蕪村。また、画業の方にしっかりとした経済基盤を持っていた蕪村は末端の人たちの意向など意に介さなかったのでしょう。この『建前』という発想があまりない蕪村の存命中は小糸スキャンダルのもみ消しなど出来ませんでした。

しかし蕪村が死んだあとでは、もはや蕪村に頼れなくなった一門のものたちは、夜半亭一門にとって不都合な小糸スキャンダルの情報を自分たちで消し去る必要がありました。そして蕪村の後を継いだ夜半亭三世(几董)は、小糸スキャンダルの部分である『いとによる』連句を『花鳥篇』から取り除くことを実行しました。

また、一門の者たちの窮状の説明を受け事情を飲み込んだ小糸は、『小糸隠し絵』に盛り込まれた秘密についても口外しないことを夜半亭一門に約束しました。

さらに夜半亭の一門や関係者に対しても、小糸スキャンダルのことについての情報を口外無用の秘密としたのです。


○『新緑杜鵑図』の場合

『小糸隠し絵』には花鳥篇『いとによる』連句や鳥山石燕の『逢魔時』図を連想させるつながりが存在していまして絵の正体解明の助けになりました。

では『新緑杜鵑図』にの場合どうでしょうか?

『新緑杜鵑図』の場合には花鳥篇『ほととぎす』連句や鳥山石燕の『逢魔時』図に加えさらにもう一つの新たなつながりが絡んでいます。

それは坂上田村麻呂の題材にした謡曲『田村』というものです。謡曲とは能を演劇としてみた場合、脚本に相当する物です。また坂上田村麻呂は平安時代の有名な武官です。

つぎは、見て下さい。その謡曲『田村』からのクライマックス部分のセリフです。

シテ(=主人公)のセリフです。つまり坂上田村麻呂のセリフです。

   シテ詞「いかに鬼神もたしかに聞け。昔もさるためしあり。 
   千方と言ひし逆臣に仕へし鬼も。王位を背く天罰にて。
   千方を捨つれば忽ち亡び失せしぞかし。ましてやま近き鈴鹿耶麻」

これを見ると、花鳥篇『ほととぎす』連句は宗因の発句も蕪村の脇句も謡曲『田村』のクライマックス場面から持ってきたものであることがわかります。

発句  ほととぎすいかに鬼神もたしかに聞(宗因)
脇句  ましてやまぢかきゆうだちの雲(蕪村)
                   花鳥篇『ほととぎす』連句より

この謡曲『田村』は坂上田村麻呂が京に攻め込んでくる鬼神の軍を千手観音の力によって撃退滅ぼしたという伝説を題材にしており、その戦いの様子が清水寺の小僧、実は坂上田村麻呂の語る話を通して描かれています。

この舞台設定は、伝説からはるか後の時代、桜の季節に花鳥篇の連句としては季節面でも一致しています。


では、この『新緑杜鵑図』という絵は坂上田村麻呂の鬼神、妖怪との戦いを描いているのでしょうか?

そうではないでしょうね。

宗因の発句の主語は謡曲『田村』の坂上田村麻呂からほととぎすに代えられているのに注目してください。

たしかに鬼神のいる世界が舞台であるという点で、花鳥篇『ほととぎす』連句と謡曲『田村』にはつながりがあるのです。そして、謡曲『田村』の坂上田村麻呂の詞も宗因の発句のほととぎすも鬼神に話しかけるという点で共通しています。

しかし蕪村や宗因があえて主語を『ほととぎす』としました。蕪村や宗因の関心が、坂上田村麻呂が行った鬼神たちとの戦いではなく、ほととぎすがいる鬼神世界そのものであるからです。

そして、この宗因の発句、蕪村の脇句をもとにしてできた絵が『新緑杜鵑図』ということになります。

鬼神世界を描くためのインスピレーションは鳥山石燕の『逢魔時』図からやってきたということになります。

ところで蕪村の脇句「ましてやまぢかきゆうだちの雲」は面白いですね。小説『花鳥篇』で私が指摘しましたようにこれは絵の中の事物の位置関係を述べることにより該当の絵そのもの(=『新緑杜鵑図』)示唆するというやり口がここでも用いられた居ます。これは『小糸隠し絵』の場合にもにも見られる蕪村の独特のやり口です。

『新緑杜鵑図』では蕪村は、雲の上の雷神を本来は鳥山石燕の『逢魔時』図のように上にはっきり描いた方がわかりやすいのでしょうが、そうは描かずに、森に潜む鬼神の場合は隠し絵として、ゆうだちの雲の雷神は雲に隠れ我々が個々の想像力を発揮して見いだすべき存在として描いています。

○まとめ

つながりの要素が『小糸隠し絵』の場合には花鳥篇『いとによる』連句と鳥山石燕『逢魔時』図のふたつですが、花鳥篇『いとによる』連句は蕪村を次いだ夜半亭三世、几董によりなかったことにされてしまっています。ので残りひとつの要素とのつながり、つまり『小糸隠し絵』と鳥山石燕『逢魔時』図で世間の人がつながりの全体像を連想するということははなはだ難しかったと想像ができます。

一方、『新緑杜鵑図』の場合には、互いのつながりのある要素は、花鳥篇『ほととぎす』連句と鳥山石燕『逢魔時』図のほかに謡曲『田村』の三つが存在しています。
そして、それらの要素のどれも現時点では秘密になっているようには見えません。

ですから、これまでの文を読んでいただいた人は『新緑杜鵑図』という絵もがその由来など謎に満ちた絵であると見なされていると知ったら驚かれるかもしれません。

『新緑杜鵑図』は蕪村の作品では大作でしかも蕪村の代表作に属しますが、その背景的な情報はほとんど存在しないと思われてきたのです。製作年月日はもちろん制作にまつわるエビソードもこの絵がどんなものを描いているのかもまったく分かってはいないのです。

しかし、『新緑杜鵑図』という絵、順追って推理連想を働かせればこの本質を見抜くことができそうなのです。

ホトトギスつながりから花鳥篇『ほととぎす』連句、同じほととぎすつながりで謡曲『田村』。謡曲【田村】から鬼神と時代つながりから鳥山石燕『逢魔時』図というように順送りに推理を重ねていけば連想はどんどんつづいて行きそうに思えます。

しかし実際にはそうなっていないのです。

せめてほととぎすつながりから『新緑杜鵑図』という題名から花鳥篇『ほととぎす』連句へのつながりを連想する人ぐらいいて良さそうだと思うでしょうが、それさえいなかったようです。
これは驚くべきことではないでしょうか。というより不自然です。

ただこの不自然さの事情について、こう考えてはどうでしょうか? 

蕪村一門が『新緑杜鵑図』を実際に手元に押さえるか、実質的な管理下に置き、世間から遠ざけ、『新緑杜鵑図』と花鳥篇連句とを結びつける情報について口外無用としました。そのために世間の人は情報を比較、連想ということができない状態にあったというわけです。

たしかにこのようなことが起こったとすればたしかに『新緑杜鵑図』を巡るつながり情報の欠落状況は納得のいくものとなります。

しかし、そう考えると新たな疑問がわいてきます。

しかし、小糸とは関係性が希薄な『新緑杜鵑図』と花鳥篇『ほととぎす』連句についてこんな口封じして何の意味があるのかということです。

たしかに、蕪村の公私混同の極みたる行動の産物である花鳥篇『いとによる』連句や『小糸隠し絵』を看板に据えて蕪村の死後も一門を経営していくことは不可能と考え、実際几董(夜半亭三世)は花鳥篇から『いとによる』の連句を削除し、小糸スキャンダルを巡る部分を隠蔽しなかったことにました。

しかし、『新緑杜鵑図』と花鳥篇『ほととぎす』連句の場合にはその必要があったでしょうか?

とは言っても『新緑杜鵑図』と『小糸隠し絵』との間には隠し絵という技法などで見逃せないつながりがあるのは確かです。

ひとつには、このつながりが連想を呼んで小糸スキャンダルが蒸し返されること。このことを蕪村一門の中核の人たちは嫌ったのだと思われます。

『羮(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く』というやつですね。よくいえば、『念には念を』というやつです。

しかしこのような蕪村一門の対応は、蕪村一門がこの問題を重く考えていたことを示していると思います。

おそらく、この目的のために、

資料手紙類が処分されたでしょう。
関係者には沈黙が要請されたでしょう。
絵画は管理下に置かれたでしょう。

これだけ秘密が保たれたというのは、『小糸隠し絵』も『新緑杜鵑図』の二枚の絵が、ひょっとしたらまだ蕪村が死んだすぐに時代には蕪村一門がその所在を把握し、管理していたからと思われます。

そして、全ては蕪村一門の人たちの思惑通りに進んで行きました。

そして、秘密は保たれたのです。蕪村の小糸スキャンダルは蕪村一門により隠蔽工作が完成したのです。

その結果、蕪村が起こした過去の不品行で蕪村一門が迷惑を被ることはもうなくなりました。蕪村は人気作『奥の細道絵図』の作家にふさわしい蕪村の人物像が確立されました。

めでたし、
めでたし、
……、
……、
しかし、結局人間は死に絶えるモノです。

蕪村一門の人たちは結局のところ人間であり最後には時の流れには勝てずついには次々に死んでいき、ついには主立った者は死んでしまいました。彼らは自分たちが隠そうとした一切合切の秘密とともにこの世から消え去ってしまいました。

一方、隠されていたあるいは管理されていた『小糸隠し絵』という作品はこの間もひっそりとどこかで生き延びていました。『新緑杜鵑図』もおそらく同じように。

そして、ある日『小糸隠し絵』は忽然とこの世界に再姿を現したのです。竜宮城から帰った浦島太郎のように。しかし、このときこの『小糸隠し絵』にまつわる情報の多くは消されてしまっていて取り返しがきかなくなっていました。つまり、世の中は『小糸隠し絵』の絵についてすっかり忘れてしまっていたのです。

この様子を年表にまとめてみましよう。
すると興味深い事実が浮かび上がってきます。

天明4年(1784年)1月
蕪村死す。68歳。

寛政2年(1790年)
夜半亭三世、几董急逝、49歳。蕪村の名を継いで『夜半亭』を名乗った蕪村一門の中心人物。

文化5年(1808年)
上田秋成、大雅・蕪村の画の値、没後高騰を記す。「蕪村が絵は、あたひ今にては高まの山のさくら花」
このような事情が『小糸隠し絵』を世の中に再登場させるきっかけとなったと思われます。

文化9年(1812年)
儒者で俳諧は蕪村門の道立没、76歳。小糸との関係の行き過ぎを意見した人物。

天保6年(1835年)
蕪村門人百池没、87歳。蕪村の最有力後援者であった人物。


このように蕪村一門の中核の人たちが死んでしまいました。

そして、このころ正体不明の絵として『小糸隠し絵』が世の中に再び現れました。

そして『小糸隠し絵』は浦島太郎のように、身元不明なので戸籍を得る必要があり、鑑定を受けることになります。

そして、実際にこのタイミングで『小糸隠し絵』の鑑定が行われているのです。


天保12年(1841年)辛丑(しんちゅう)
当時の人気絵師で諸派の技法に通じる大西椿年『小糸隠し絵』を鑑定。

嘉永2年(1849年) 己酉(きゆう)
当代随一の鑑定士、古昔庵好齊『小糸隠し絵』を鑑定


「生誕300年祭」は蕪村の夢
毛馬 一三
江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。ところが、その生誕地が大阪毛馬村だとは、余り周知されていない。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋主と結ばれて蕪村が産まれた。母親が若くして京都丹後の実家に帰郷したため、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことや、父の「庄屋家督継承」も出来なかったことから、意を決して毛馬村を飛び出したようだ。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>以上
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は江戸から帰り、定住していた京都から船で「淀川」を下って、生誕地毛馬村を横目に眺めながら、頻繁に大阪にやって来ている。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内の数多い門人弟子らを訪ねて回り「吟行」を多重に行っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪以外のいたる所も巡行している   

<特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)>

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。

それだけではなく蕪村は、上記の通り京都に還って来てから、大阪のいたる所を吟行して回り、大阪俳人として活躍の場としていたのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の「源八橋から蕪村生誕地の毛馬まで歩いてみても、30分ほどしかかからない、短い距離に生誕地はあるのだ。それなのに蕪村は、生涯地・毛馬には一歩も足を踏み入れていない。

やはり母の帰郷後も、家人からは私生児のことをやり玉にあげられて過度の苛めに合い、出家まで決意させられた辛い思いで彷徨したこともあったという。大坂生誕地に帰郷すれば「怨念」が脳裏を支配し、これが立ち寄りを阻んだものだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「講座・蕪村顕彰俳句大学」で、大阪市立大学と共同し 来年に迫った2016年の年に「蕪村生誕300年祭」開催の準備を進めている。来年5月には「蕪村生誕300年記念行事実行委員会」(市大・村田正博教授)が、画期的な「シンポジューム」を開催することにしている。

蕪村が氏子で生誕地から離れるまで参拝続けた現在の「淀川神社」をはじめ、長期に蕪村顕彰をしている「蕪村通り商店街」と共同事業をする。また地元淀川・大東連合町会や地元NPO法人とも、足並みを揃えていく方向で打合せをしている。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っているが、なんと大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」する実績は、大阪ではない。情けないことだ。

それだけに、何としてでも2016年の年に「蕪村生誕300年祭」を敢行し、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時に、蕪村から「望郷魂」だけでも貰いたいと思っている。

「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)


「生誕日」が分からない蕪村と芭蕉
毛馬 一三
与謝蕪村、松尾芭蕉と並んで江戸時代の三大俳人と言われる小林一茶の「生誕を祝う祭り」の催しが、生誕地の長野県信濃町で5月5日に開かれた。

一茶は、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、信濃町で生まれている。

これを記念して信濃町では、5月5日、一茶の生誕250年を祝う催し「一茶まつり」が開かれ、町内にあるJR黒姫駅から、地元の子供も含む200余人が、「一茶音頭」などの音楽に合わせて町を練り歩く。

ところで、大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分かっていない。

芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、「生誕日」はが分かっていない。しかも厄介なことに、生誕地そのものも、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、困惑させられる。

だから、確定している「生誕日」に「お祝い」出来るのは小林一茶だけということになり、蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな悩みだ。

となれば、「生誕日」が定かではない以上、まず蕪村については来年の2016年に迫った生誕の「年」の「然るべき時」に、「生誕300年記念行事」をせざるを得ないことになる。

そこで、小林一茶の「生誕日」に「お祝いの行事」が行われた機会に、本誌でこれまで触れたことの無かった小林一茶の生涯等を、綴って置きたい。その訳はこのあと追々。

◆小林 一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、皆幼くして亡くす。きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。
64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長するものの、一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。
そして、その年の11月19日、その土蔵の中で、64年半の生涯を閉じる。法名は釈一茶不退位。

◆さて、<一茶俳句の作風>だが、
幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と、平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれている。

◆<代表的な句>は
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
名月をとってくれろと泣く子かな
これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
うまさうな雪がふうはりふうはりと
ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

◆序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、句数は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。
しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。<参考:ウィキペディア>

ところがここで述べたかったのは蕪村が、「生まれた毛馬村」で父母の死後、私生児として味合った精神的軋轢と自虐的苦悩が、一茶の感慨と極めて類似したところが多々あることだ。蕪村は、これが大阪毛馬村から抜け出し、江戸を目指したことに繋がっていく。

このことが、一茶の生涯を記述することによって、蕪村の共通の苦衷と繋がることが明らかになるだけに、上記のことを書き留めて置きたかった。

「NPO法人近畿ホーラム21」では、大阪俳人・蕪村顕彰のために「蕪村生誕300年祭記念行事」を、大阪府・大阪市や大阪市大、地元の協力を得て大々的に実施することにしようと、今、諸計画の準備を進めている。

「生誕日」が分からない蕪村だが、小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念諸行事を、来年の適切な時に開催したい。大阪の俳句文化振興と蕪村俳句後世継承に貢献したいと考えているからだ。
(了)


俳句は流行
杉浦正章
花鳥諷詠しか俳句と認めないという一派がある。
高浜虚子の教えを忠実に守っている“お家元”俳句だ。
「花鳥風月など対象物の前でじっと見詰めていなさい。
そうすれば俳句が湧いてくる」のだそうだ。

しかし、この忙しい現代に俳句帽かぶって
梅の木の前で首をかしげていてよい俳句が出来るのだろうか。
ちょっと違うのではないかと言う気がする。

人間にはいろいろあって、
その人生の背景も全く別。
その人生において、
あらゆる存在を独自に観察し尽くしてきた人間もいれば、
見過ごしてきた人間もいる。

観察などしなくても分かっている人間も多い。
芭蕉は「不易と流行」を説いたが、
現代俳句における不易が花鳥諷詠、
流行が五七五と季語の作る定型の枠内で
あらゆる題材を俳句にする作句法だ。

「観察なんてしていない。
家で辞書などを見てひらめきで作っている」というプロもいる。

辞書を見ただけでひらめくには才能が必要だが、
こういう作り方もある。
辞書で単語を探すのは漢詩の作り方にも通ずるところがある。

要するに、封建時代の遺物のような、
また家元制度の見本のような結社に入って、
その呪縛にかかってしまっては自由な俳句は作れないということだ。

たいしたこともない主宰の顔色をうかがって、
泥田に足を取られるより、
自由で気ままな作句活動がふさわしい。
「流行」が時代にふさわしい。


蕪村『小糸隠し絵』論」
和泉 清(俳句愛好家)
<第一章 蕪村と俳句と『わたし(=蕪村)』>

まず『小糸隠し絵』にまつわる句(蕪村・花鳥編)を取り上げる。

「ちかづきの隣に声す夏の月」 (夜半亭蕪村)

意味は次のようになる

『(わたし=蕪村の)近くの人の隣に声がすると思えば、
昇りかけの夏の月だった。そういう絵ですよ。』
ポイント:『わたし(=蕪村)』という訳語や意味が
付加される必要あるのかという疑問が沸くのはごく自然なことである。

これは蕪村の場合に限っては特別なことではない。
というかごく普通のことである。
蕪村の俳句は次の二点の特徴があるからだ。

蕪村はその俳句が自分を中心とした世界を舞台としている(子規でいうところの『写生』)ので、
その主語(=わたし)は省略する。==>『わたし』の省略

また、蕪村は俳句から解説、説明、判断の要素を極力排除している。
だから、そこの部分を想像で補う必要がある。==>『わたし注釈』の省略

次にこの例を示す。

<類例>


「妹(いも)が垣根 三味線草(さみせんぐさ)の 花咲きぬ」 蕪村
小糸の宴席は三味線の音で賑わっているが、
(そこには加われない自分がいる)


「白梅(しらうめ)に明くる夜(よ)ばかりとなりにけり」 蕪村
死期が近いのか(私の周りの世界は)白梅に明ける夜が続いています


「春の海ひねもすのたりのたりかな」 蕪村
(私は)春の海が一日中のんびりとした時間が過ぎて行くのを体験したよ


「遅き日のつもりて遠きむかしかな」 蕪村
春の遅い日の記憶が積み重なって
遠きむかしというものになるように(私には思えます)


「滝口に灯(ひ)を呼ぶ声や春の雨」 蕪村
春の雨が降り出し滝口の武士たちが灯を求める声が聞こえる
(それが私にはおもむき深く思える)


「片町にさらさ染(そ)むるや春の風」 蕪村
とおりの片方に町並みがありとおりのもう一方にさらさが春の風の中干されている。
その景色が(わたしには)面白く思えたよ


「お手討の夫婦(みょうと)なりしを更衣(ころもがえ)」 蕪村
不義密通によりお手討ちになるところを許されて
いまこうして更衣(ころもがえ)の季節を迎えることが出来た。
そういう心温まるはなしが(わたしのところにも聞こえてきた)。


      *      *
蕪村の句は『わたしの世界』の出来事『わたしが感じた刹那』の出来事etc.を表したもの。
そういうのばかりなので蕪村はわざわざ『わたし』とは書かない。
この創作姿勢の本質に正岡子規は『写生』的なもの感じたのだろう。
      *      *

以上見てきたように蕪村の作風の特徴である
『わたし注釈』や『わたし』の省略などあることを見てきたが、
他方このような蕪村俳句の特徴は、
そういうものがほぼ不要な芭蕉の俳句と並べてみることで、
蕪村の作風の特徴はなおはっきりとわかるようになる。

<芭蕉の句>

・古池や蛙(かはず)飛びこむ水の音
・夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
・閑(しず)かさや岩にしみ入(い)る蝉(せみ)の声
・五月雨(さみだれ)をあつめて早(はや)し最上川(もがみがわ)
・荒海(あらうみ)や佐渡に横たふ(よこたう)天の河(あまのがわ)
・山路(やまじ)来て何やらゆかし菫草(すみれぐさ)
・古池や蛙(かはず)飛びこむ水の音
・花の雲鐘(かね)は上野か浅草か
・夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
・この道や行く人なしに秋の暮
・閑(しず)かさや岩にしみ入(い)る蝉(せみ)の声
・物いへば(いえば)唇(くちびる)寒し秋の風
・五月雨(さみだれ)をあつめて早(はや)し最上川(もがみがわ)
・荒海(あらうみ)や佐渡に横たふ(よこたう)天の河(あまのがわ)
・山路(やまじ)来て何やらゆかし菫草(すみれぐさ)
・花の雲鐘(かね)は上野か浅草か
・この道や行く人なしに秋の暮
・物いへば(いえば)唇(くちびる)寒し秋の風
・菊の香(か)や奈良には古き仏達(ほとけたち)
・秋深き隣(となり)は何をする人ぞ
・旅に病(や)んで夢は枯野(かれの)をかけ廻(めぐ)る
芭蕉の俳句では『わたし』『わたし注釈』を補足する必要はない。
俳句の5・7・5で十分に意味は尽くされるからである。  
 
      *      *

<結論>

蕪村は自分の五感を通して
人情の微妙な機微や異世界の息吹を感じ取り表現する人間である。

蕪村の俳句はこの蕪村の鋭敏な五感というかこの『わたし』世界の上に成り立っている。
にもかかわらず『わたし注釈』や『わたし』について蕪村はみずからいっさい行わない。

だからこそ『わたし注釈』『わたし』の読み手による補足は
蕪村俳句の解釈上の前提ともいえる大切なことである。

ということで『わたし注釈』『わたし』の補足を行った次のような蕪村の俳句の訳は
蕪村の場合においては正統的な訳である。

小糸隠し絵にまつわる句(蕪村・花鳥編)

「ちかづきの隣に声す夏の月」 (夜半亭蕪村)

その意味
『(わたし=蕪村の)近くの人の隣に声がすると思えば、
昇りかけの夏の月だった。そういう絵ですよ。』


題名 蕪村『小糸隠し絵』論

<第二章 蕪村絵画論>


絵画の世界で蕪村が表現したもの。それは以下の二つにまとめられる。

その1 刹那の自然の美や歓興
その2 人情の機微・喜怒哀楽

その1 刹那の自然の美や歓興

これについては蕪村が担当した『十宜図』を見ればわかる。
蕪村は大雅が担当した『十便図』が理想郷と俗世とは離れた
仙人のような暮らしを描いたのとは対照的に自然の刹那の美を描いている。

つまり蕪村は自然の一瞬の美を、息吹を、動きを
一枚一枚の絵に落とし込むことに腐心している。
これは自然美についての蕪村の表現姿勢をみる一番のよい見本といえる。

ところで蕪村『小糸隠し絵』も月が昇り画面には落ちかかる夕日が照らしている瞬間、
一瞬の美を描いている点で蕪村的であり、
また、あの蕪村の代表的名句、
『菜の花や月は東に日は西に』(蕪村)につながり、蕪村的である。

というふうにこの『小糸隠し絵』は二重の意味で蕪村的であるのだ。


その2 人情の機微・喜怒哀楽
これは非常に蕪村が得意としたものである。
戯画的な表現で市井の人々の暮らしぶり、喜怒哀楽を描く
蕪村の俳画や蕪村の『奥の細道絵巻』は
もっとも蕪村的な表現で広く評価されている。

また蕪村の絵画に登場する人間ばかりではなく、
『野馬図』などの馬たちでもその表情はいきりたち、
激情をあらわにしている。ほか代表作『鳶烏図』で描かれた
雪の嵐や強風を耐える鳶と烏の姿もよい例だ。

蕪村の多くの絵に登場する人間や動物は
蕪村の作品の中では大きくものをいいなくてはならない蕪村の表現上を武器となっている。

雄大な自然の中を旅する流浪の旅人の姿を通して刹那の空気が再現される。
これも蕪村の得意とするテーマであった。旅人たちの表情から喜怒哀楽が伝わり、
彼らが旅する場所の雰囲気がそれを鑑賞する我々にその場の空気が実感として伝わってくる。

『小糸隠し絵』において蕪村本人らしき老人が見られるのは
人物を喜怒哀楽の表現手段として意図的に加える蕪村流だろう。

この老人によって『小糸隠し絵』に伝奇的、寓話的ニュアンスというか、
そこの特異な空気を実感として伝えよういう意図である。
そしてこれは表現の手段として人物を用いる
蕪村流の絵画方程式に則ったものでけっして異例なものではない。


<☆大結論☆>
蕪村の性格面を検討すると蕪村に創作において大きな特徴がある。
それは、これまで見てきた蕪村の創作態度から、蕪村は説明をしない、
言い訳をしない人であるということである。
それが蕪村の場合には人間として異例に徹底しているのだ。

俳句において解題とかその助けになるような要素は残さず、
読者を突っ撥ねるかのように状況だけを簡潔に提示するのが蕪村流だ。

そういう蕪村はなにか『小糸隠し絵』のような大きな仕掛けを仕組んでも
その仕掛け・解明についての露骨なヒントは残さないだろうということは十分考えられる。

表現すべきことの意を尽くすことに全力を用いた蕪村は、
一方でその『小糸隠し絵』がまったく理解され、解明されない事態については
これまでどおり問題とせず恐れなかったようにさえ思える。
そしてこのような蕪村の性癖は『小糸隠し絵』が
今日まで埋もれてしまった大きな原因であると思われる。

こういうことは蕪村以外の人間では起こりそうもないことであるが、
しかし、蕪村であれば十分考えられることである。


蕪村生誕地を証明した「一通の書簡」
毛馬 一三
 松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

 仮にそうでなくとも、明治時代になって、蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、毛馬生誕地は把握し、世に広めていたに違いないと思っていたからだ。

 ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、驚かされた。

 それの事を知らされたのは、NPO法人近畿フォーラム21主催「蕪村顕彰俳句大学」講座で講師をお願いしている、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、懇談した時であった。

 結論から先にいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦直後のことだということだった。奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったというのである。

 藤田教授の話によると、次のようなことだった。

 (蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという明確な「記録」は残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、いなかったのではないかというのだ。

 ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

 想像してもこの書き方では、「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

 しかし、その後願ってもないことが起きていた。

 蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと綴っている。

 春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

 それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。

 というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

 しかし、前記の如く、奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

 しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

 以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

 これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

 こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから七十余年しか経たない。そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、誠に慙愧に絶えない。

 このために、今ですら地元大阪で「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民が多い。次世代を担う児童生徒の学習にすら上がっていないことを考えると、児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。残念で仕方がない。

 だから、われわれ「蕪村顕彰俳句大学」では、二年後の蕪村生誕三百年に向けて、「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化活性と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

 余談ながら藤田教授との懇談の中で、更に驚いたことがあったことを記して置きたい。
「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、それほど郷愁があったのなら、極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。その痕跡はありませんか」

 答えは「それを証明する歴史書類はありません。立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」ということだった。

 となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという推察が浮上してくる。

 恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に結びついているのではないだろうか。

 これはあくまで私の推論である。

 最後になりましたが、どうか、二年後に向けた私たち主催の「蕪村生誕三百年記念諸行事」の開催に、是非共皆様のご賛同とご支援をお願い申し上げます。(了)


蕪村エッセイ 「花鳥篇」
和泉 清
 蕪村は『花鳥篇』の序文にあるように弟子などから寄せられていた『桜』をお題とした句と西山宗因の「ほととぎすいかに鬼神もたしかに聞け」を立句とした歌仙をメインにすえ『花鳥篇』の制作に集中していた。

 ところで西山宗因の句は『花鳥篇』の成立に貢献しただけでなく絵の方面でも大きなインスピレーションを蕪村に与えた。この西山宗因の句のイメージを絵に表現というところから蕪村は『新緑杜鵑図』の絵をものにすることができた。

 またこの『新緑杜鵑図』という絵で蕪村は鬼神を森に潜む隠し絵の巨大な鳥として描くという新機軸も編み出していた。また『花鳥編』においては『新緑杜鵑図』の存在を彼にしかできないやりかたで謎かけの仕組みを考案実行した。

つまりこういうことである。蕪村は「ましてやまぢかきゆふだちの雲」という蕪村自身の句を西山宗因の「いかに鬼神もたしかに聞(きけ)」という立句の後に添えた。『新緑杜鵑図』には小さな杜鵑(ほととぎす)の他に夕立雲と鳥の姿をした魔神が隠し絵で描かれている。

 そして実際杜鵑は魔神の隠し絵の鳥より夕立雲にずいぶん近い位置に描かれている。その近さを「ましてやまぢかきゆうだちの雲」と表現し『新緑杜鵑図』と西山宗因の立句と次の蕪村の句の2句が同じ素性のものであることを仄めかしたのである。

 後日蕪村はひいきの芸子小糸と会った際に、『花鳥篇』の話やこれらのエピソードを面白おかしく仕立てて聞かせてやった。隠し絵や西山宗因の句から歌仙(連句)や絵のアイデアを導き出したこと。

 しかしこれを世間には公表せず謎かけとしそのヒントだけを連句に残したこと。このような謎かけに世間がどう反応するかあるいは気づくのか気づかないのか。蕪村自身楽しみにして見守って行きたいと思っているということ。これらを蕪村は芸子小糸に話をしたのだ。

 すると蕪村の言おうとしていたことを小糸はすぐに理解した。そして小糸も、おおいに気に入った。お互いにツーといえばカーという同じ発想ができる間柄であったので小糸と蕪村の間には異例の厚い愛情が成立していたのである。

 しかし良いことばかりではない。蕪村の話で小糸ほうでもよいことを思いついたのである。小糸はよいことを思いつくと後先考えずに一気に駆け出す性向があった。

 これはいつもわがままの大爆発につながった。以前白い反物に山水を描いてくれとせがんできたのもこの小糸であった。

 「隠し絵って面白いよね。蕪村さん。わたしを隠し絵で描くというのはどうかしら。第一いい記念になると思うの。その絵を元になぞなぞの歌仙(連句)が編んだらもっと素敵じゃない? そしてその歌仙を蕪村さんの『花鳥篇』に載せてもらえたら最高に嬉しいな。

ねえ蕪村さん。わたしに絵を描いてくれるって約束してくれていたでしょう。わたしのこと隠し絵で描いてくださいよ。お願い。本当に一生のお願いですから」

 小糸のこういう言い方は蕪村にとって拒むことが許されない絶対命令であった。

 『花鳥篇』が完成した。『花鳥篇』の冊子の中ほどに意味不明のしかも未完成の連句が掲載されているのを見て蕪村の弟子の一人が驚いた。この弟子は事情を知っていそうな別の弟子に聞いてみた。

「あれはね。夜半翁(蕪村)さんが最後にねじ込んだらしいよ。夜半翁さんも分かっているだろうけど小糸さんがからむと夜半翁さん見境がつかなくなるから」

 二人はもういちど『花鳥篇』の冊子に目を通してみたが「いとによるものならにくし凧(いかのぼり)」を立句にした連句は本来32句が必要な歌仙なのに12句しかなくて最後に「下略」などと言い訳がましいことが書かれている。

 連句の内容も意味不明で中途半端なものにしか見えなかった。二人は『花鳥篇』の中からこの連句をいつか取り除きたいと思った。

 蕪村のほうでも、大阪うめ女の「いとによる……」を立句にした連句12句の評判が良くないのは承知していた。小糸の頼みで『小糸の姿絵』を隠し絵で描いてあげたのはよい。そして『小糸の姿絵』の特徴を上手く盛り込んで連句を作り上げた。これも良い。これには連句6句で足りた。これもうまくいった。

 しかしそれに続いて歌仙32句を編み上げようとしたのだが骨組みというかスケッチの6句が用意できただけで歌仙は頓挫してしまったのだ。この歌仙としては体をなさない未完の12句しかも『小糸の姿絵』は永遠に世間にでることは無いだろうからこの連句12句は世間からは意味不明という評価しか得ることはないだろう。

その連句12句を蕪村はごり押しで『花鳥篇』に載せてしまったのである。蕪村もこれが正しいこととは思っていなかった。しかし蕪村はどうにも小糸の夢を壊すわけには行かなかったのである。

 蕪村の死の数年後『花鳥篇』は『一夜四歌仙』の一部として出版された。出版の際「いとによるものならにくし凧(いかのぼり)」を立句にした連句は『花鳥篇』から削除された。

 そして『蕪村七部集』で取り上げられた『花鳥篇』にも「いとによるものならにくし凧(いかのぼり)」を立句にした連句は掲載されなかった。この状況は続いた。そしてこの連句12句が『花鳥篇』に復活したのは140年ほど後の昭和3年であった。(了)


俳句の楽しみ
園 高子(俳号:園多佳女)
 私は現在、満95歳です。俳句は、女学校を卒業してから間もなく始めました。

 俳句を始めましたきっかけは、地方紙"紀伊民報"(五十嵐播水選者)に投句したのが掲載されたのと、叔父が俳句結社"ホトトギス"の同人だったことではないかと思っています。

 それ以来、主婦としての子育ての期間を除きまして、神職の手伝い等を行いながら、ずっと俳句を続けてきました。昭和44年からは俳句結社"雨月"に属し、大橋敦子先生の指導を受けてきました。

 俳句を続けてきましたのは、勿論俳句つくりが好きだからですが、何故好きかと申しますと、5・7・5の中に「自分の思いを表現」できるからです。

 毎日が新鮮な気持ちでおれますし、季節感、人の気持ち等を感じることができるからです。「感性が豊かになる」とも思います。

 また、5・7・5の中にいかに上手く表現するか、色々頭を使います。それに先生の添削、評価によりさらに鍛えられますし、句会等を通して上達したいと言う気力が湧いてきます。また、「句会を通してお友達ができる」のがとても嬉しいです。
 
 私はこの年齢になっても痴呆になることもなく、頭がしっかりしていますね、と言われます。これは「常に5・7・5での作句が頭にあるからだ」と思っています。

 俳句は紙1枚、鉛筆1本あれば作れます。あとは考える頭があればいいだけです。
 子供にも頭の老化を防ぐため俳句作りを進めています。幸い、娘の夫が俳句に興味を示し、俳句を始めました(「蕪村顕彰俳句大学」を受講)。

 時々、私に作品を見せにきますが、楽しく批評をしています。いいコミュニケーションが取れ、喜んでいます。
 
 俳句をして本当によかったと思っています。最近は足腰も弱り、外出できませんので刺激も少なく、なかなかこれと言った俳句もできませんが、写真等をみて、昔を思い出し、ぼつぼつ作っています。今後も少しずつでも作句し、痴呆防止に努めたく思っています。

 では、私の句を少し添付します。

 ・御饌運ぶ足止めて聞く初音かな

 ・泣きにきて昼寝の母と寝て帰る

 ・ラストシーンのごと黄落を一人行く


                     平成26年1月15日 以上


蕪村逍遥(蕪村と遊ぶ)
安部 和子
(俳句結社 「雨月」同人)
余が故園

 五月のある日、JR大阪駅からの市バスを毛馬橋で降り、堤に向かって二百メートル程歩くと何ともいえない甘い香の風がきて息が詰まりそうになった。堤の石段を上るにつれて視界が開け、まず淀川が広い河幅を湛えているのが見える。その河川敷の広さ一面をクローバーが覆っていた。クローバーの花がこんなに香るとは。
 淀川の河畔は河川公園や野球場、ゴルフ場として利用されており、早春三月頃から一面に西洋辛子菜が咲き蘆が角ぐみ、散策にも格好の地として心や体をリフレッシュさせてくれる市民の癒しの場となっている。
 「湾処(わんど)」と呼ぶ池が両岸に作られていて、淀川の魚や水生生物・植物のビオトープとなっているが、この湾処が並び、一面の蘆原には葦雀が声を張っていた。

 蕪村は享保元年(一七一六)この辺りで生まれた。父は村長だったと、蕪村の高弟几董(きとう)が「夜半翁終焉記」に書いているが、庄屋だったという説もあり、明確ではない。その頃京都丹後の与謝から大阪攝津へ多くの男女が年季奉公に出ており、蕪村の母もその中の一人であったろうという。この辺のことは既に人口に膾炙されていることで、後に幼い蕪村を連れて実家の与謝に帰ったと京都金福寺の「蕪村翁碑」にあるように、父の使用人か、妾ではなかったかという。
 母については、蕪村が谷口姓を名乗ったのは母方の姓であるとすると、苗字帯刀を許される格式の家の娘が攝津まで奉公に出ただろうかという説もあり、母親の出自についてははっきりわかっていないようだが、与謝には母げんの墓といわれる石塔がある。ともかく、身籠って与謝に戻り蕪村を出産後再び毛馬へ出た説、また与謝に戻って生んだ後、蕪村を連れ後添いに嫁いだが、離縁して実家に戻った説などがあり、馬堤は毛馬堤也。則、余が故園也。余幼童之時、春色清和の日ニハ、必友どちと此の堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船あり。堤ニハ往来ノ客アリ。」と伏見の門人柳女・賀瑞母子に宛ててしたためた文面とは合わなくなるので、ある程度父の家で成長したと思われる。
 この手紙は「春風馬堤曲」の成立・発想についても書いているが、この一文により蕪村の幼時を髣髴することができるのである。門人の柳女・賀瑞(りゅうじょ・がりゅう)母子は蕪村が心を開いて受け入れる何かをもっていた存在であったことと思う。
 毛馬の当時を描く『淀川両岸一覧』の一ページが、今、銅版として毛馬公園に設置されており、それを見ても分かるように、淀川の船の上りは河畔を船子が曳いていた。京・大坂間十三里を上下する舟は、八軒屋から客を乗せ京橋から桜宮を経て毛馬へ、更に三嶋江と上って行くが、毛馬では船子たちが一旦陸へあがり、二十丁を綱でひいてのぼり、そこから舟に乗りこみまた陸へあがり、岸から約一里を引いて江口でまた乗り込むというように、毛馬は水路を利用する大坂にとって重要な地であった。この付近では煮売舟が餅や酒や田楽などを舟に寄せて売っていたというから結構賑やかな町だったのではないだろうか。
 安永六年(一七七六)、蕪村六十二歳、俳諧師としては夜半亭二世を襲ぎ、文人画家としては既に五年前(一七七一)に池大雅(いけのたいが)と十便十宜帖を合作するほどの名立たる業績を残しているその時期に発表したのが、蕪村春興帖『夜半楽』「春風馬堤曲」「澱河歌」「北寿老仙をいたむ」の三部作であった。
 その前年六十一歳の十二月に娘くのを三井の料理人柿屋伝兵衛方に嫁がせており、共に絵師として研鑽した池大雅は五十四歳で没。自身も正月から二月にかけて病んだ。病臥の中でもっとも心の中を占めていたのが娘くのと亡き母の面影であったであろう。「馬堤は毛馬堤也。則余が故国也。余、幼童之時春色清和の日ニハ必友どちと此の堤上にノボリテ」と記す柳女・賀瑞母子宛の文面には続いて「身ハ愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情ニて候・・・」と記している。生まれ育った毛馬の景の中に幼い自分の姿を置いて、懐かしくもあり切ないものでもあった心の澱を筆に托しつつ、そこにある種の物語性をもたせて書いたこの三部作は、それだけに真実がこめられているはずである。俳諧師、詩人、画人という蕪村のすべてが凝縮された作品であろう。

 母体に宿ったその瞬間から、すでに子供は人間としての生涯を出発しているのである。だが、生まれた子供が何歳くらいから自分の境遇を意識するものだろうか。「三つ子の魂百まで」というのは、子育てをしてみると何かにつけて実感するものだが、家庭環境の中での、特殊な生い立ちを蕪村は自ずから悟っていったに違いない。
 母が病んだ事によって一人毛馬の家に残されていたか、母と共に既に与謝に戻っていたかは不明だが、蕪村が毛馬の家を後にするまでの生活環境はいろいろと推測される。それは母が亡くなったのが十三歳頃で、十七歳のころには江戸へ出てをり、二度とこの生家に戻らなかったことで充分に思い測ることができるのである。
 叙情的な作品の根底をなす原風景がたしかにここ毛馬にはある。その生い立ちの曖昧模糊を原風景の明るさが救ってくれるのである。
ここでは『夜半楽』の中の「春風馬堤曲」に限って、蕪村の心を探って見たいと思う。本文はわずかに四十行程で成っている。


春風や堤長うして家遠し

 「春風馬堤曲」の原文は短いが漢詩体に句を交えている為、一般にはすんなりとは読みにくいが、読んでみるとクイズを解くように面白くなってくるのがこの種の文体である。
 はじめはこれを書くに至った経過を記している。

「春風馬堤曲」
謝 蕪邨
余一日問耆老於故園  余一日耆老ヲ故園ニ問フ
渡澱水過馬堤     澱水を渡り、馬堤ヲ過グ
偶逢女帰省郷者    偶々女ノ帰省スル者ニ逢フ
先後行数里。相顧語  先後シテ行クコト数里。相顧ミテ語ル
容姿嬋娟。痴情可憐  容姿嬋娟トシテ。痴情憐ムベシ  
因製歌曲十八首    因リテ歌曲十八首ヲ製シ
代女述意       女ニ代ハリテ意ヲ述ブ
題曰春風馬堤曲    題シテ春風馬堤曲ト曰フ 

 「ある日、懇意な老人を訪う為に故郷へむかった。淀川を渡り、毛馬堤を通るとき、たまたま帰郷するという一人の娘に出会った。後になり、先になりして数里を行くうちに互いに振り返っては語り合うようになった。容姿は美しくあでやかで、魅力的なものを漂わしている。心をうごかされ、歌曲十八首を作り、その娘に代って思いをのべよう。題を春風馬堤曲と曰う。」
 この前書きの主役は蕪村自身で、いまから始まる曲のプロローグ。必ずしも長閑でもなく、晴々としたものでもないのに、春風・馬堤の言霊が、読む者の眼に既に景を描かせてしまう。
 「馬堤曲」の題名も『楽府(がふ)』(中国漢代に起った楽府体の詩)題の「大堤曲」にあやかったもので、「女に代りて意を述ぶ」という形式も漢詩に倣ったものでありながら、一人の娘に焦点を当てることで何かを匂わせ、明治初期の新体詩を読むような趣を持つ。
 主役は蕪村ではあるが主役を演じているのは、蕪村ではない。蕪村が、死ぬまで一度も毛馬に帰郷した証が無い以上、あくまでもこのドラマはフィクションであり、ここで登場する娘についても、蕪村には姉がいてその姉がモデルであろうとする説もあるが、私はそれよりも娘くのの面影を重ねた想像上の娘だと解している。蕪村はあくまでもシナリオライター兼カメラマンである。
 「春風馬堤曲」は漢詩体四首を含む十八首で成る。「謝蕪村」の謝は与謝の謝で丹後から帰洛後それまでの谷氏から与謝氏へ改め、蕪村の蕪は天王寺蕪の蕪に由来するのではないかという説もあるが、陶淵明の「帰去来辞」にある「田園将蕪」に基づくという説をとりたい。「帰去来辞」は陶淵明が四十一歳のとき故郷に隠棲して書いたもので蕪村が母の出自の与謝に改めたのが四十二歳、蕪村の号は二十九歳から宰鳥(さいちょう)とともに用いていた。
 ここからは娘が語る。

・やぶ入や浪花を出て長柄川 
・春風や堤長うして家遠し
・堤下摘芳草 荊与棘塞路
荊棘何無情 裂裙且傷股
堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊ト棘ト路ヲ塞グ
荊棘何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股ヲ傷ツク 
・渓流石点々 踏石撮香芹
多謝水上石 教儂不沾裙
渓流石点々 石ヲ踏ンデ香芹ヲ撮ル
多謝ス水上ノ石 儂ヲシテ裙ヲ沾(ぬ)ラサザラシム

 「やぶ入りで奉公先の浪花から長柄川まできました。目の前に広がる淀は広く、毛馬堤は長く、我が家は遥か彼方なのです。
 道々草を摘もうとすると、いばらがいじわるをして路を塞ぎます。私の着物の裾を裂き、腿まで傷つけるのです。流れには石が点々とあり、その石を踏んで香りのよい芹を摘みました。水の上の石よ、有難う。着物の裾を濡らさないように教えてくれて」
 読むに従って風景と登場人物が見えてくる。蕪村は絵画的だといわれるが、一枚一枚の絵が動き始め、立体となって息づいてくるのを感じることができる。向かう我が家は遠くとも、雇い主の眼から解き放たれた心の弾みが見える。故郷へ、母の許へ戻る嬉しさである。この時蕪村は六十二歳、しかし何と素直な飾り気ない言葉で綴っていることか。

・一軒の茶見世の柳老にけり
・茶店の老婆子儂を見て慇懃に
無恙を賀し且儂が春衣を美(ほ)ム
・店中有二客 能解江南語
酒銭擲三緡 迎我譲榻去
店中二客有リ 能ク解ス江南ノ語(大阪の花街の廓言葉)
 酒銭三緡(びん、)ヲ擲チ我ヲ迎ヘ榻ヲ譲ッテ去ル 

 「路の辺に一軒の茶店があります。ここの柳も老いました。私がこの路を何度か往復するうちに。店の老婆は私を見て元気でいることを喜んでくれ、私の着ている着物まで誉めてくれました。店の中に二人の客がいました。大阪の花街、島の内の廓言葉もよく通じていて、私に酒代三さし(一緡は百文、百文をつないで一さしとしていた。当時の酒価は一升約二百五十文銭)を投げ出し、席を譲って去りました」
 娘の旅は始まったばかり、長い淀川堤に沿い水と遊び、恋の猫や鶏の家族と話を交しつつの行路である。

・古駅三両家猫児妻を呼妻来らず
・呼籬籬外鶏 籬外草満地
・雛飛欲越籬 籬高堕三四
雛ヲ呼ブ籬外ノ鶏 籬外草地ニ満ツ
雛飛ビテ籬ヲ越エント欲ス 
籬高ウシテ堕ツルコト三四

 「街道沿いの里にニ、三軒の家があり、猫が雌猫を呼んでいますが雌の猫は来ません。また垣根の外から鶏が呼んでいます。垣根の外には春の草がたくさん生えているのです。雛が来て垣根を飛び越えようとしていますが、垣根は高くて三、四羽は越えることができません」

・春艸路三叉中に捷径あり我を迎ふ
・たんぽぽ花咲り三々五々五々は黄に
三々は白し記得す去年此路よりす
・憐ミとる蒲公茎短して乳を?(アマセリ)
・むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
慈母の懐袍別に春あり

 「春の草が咲く三叉路まで来ました。中の一本の径が私を迎えてくれました。たんぽぽが咲きその中の五々は黄に、三々は白に(薺の花のことか)去年この径を通ったことを覚えています。思わず蒲公英を摘みました。その茎から乳が溢れ出ました。昔の思い出が呼びおこされます。母は慈しみ深く、抱かれた温かさは他に替え難いものでした」
 春の草ひとつにも母への思いを吐露する少女である。

・春あり成長して浪花にあり 
梅は白し浪花橋辺財主の家
春情まなび得たり浪花風流(ブリ)
・郷を辞し弟に負く身三春
本をわすれ末を取接木の梅
・故郷春深し行々て又行き々
楊柳長堤道漸くくだれり
・矯首はじめて見る故園の家黄昏
戸に倚る白髪の人弟を抱き我を
待つ春又春
・君不見古人太祇が句
藪入の寝るやひとりの親の側

 「春を迎えたとき、浪花に出ました。白梅の咲く浪花橋のほとりのお邸で浪花ぶりの青春を楽しんでいます。でも私は弟にそむいて故郷を出て三度目の春を過ごしていることを思えば、これでは接木が花を咲かせて元の親木を忘れている梅と同じことです。
 ふるさとの景は春深く、だんだんと近づきました。柳の続く長堤が下り坂となりました。首を上げて、はじめて故郷の我が家を黄昏の中に見ました。戸に倚りかかっている白髪の人、それは母、弟を抱き私を待ちに待ってくれている人です。
 あなたもご存知でしょう、薮入りで一人きりの母の許に帰り、気兼ねもなく我が家で寝ている子と母を詠んだ炭太祇のこの句を
藪入の寝るやひとりの親の側

 少女の浪花での生活は必ずしも辛いものではないが、故郷を思えばそれは手放しで楽しく暮しているのでもない。
 太祇(たいぎ)は明和八年に蕪村一門の人々に惜しまれながら京の不夜庵に没した。中興俳諧前夜にこの世を去った太祇は、蕪村が夜半亭二世を継承する前後から蕪村一門を支えた一方の柱であった。ここに太祇の句をもってきたのは蕪村のはからいであったといわれる。最後の感極まった自分のあらわな感情の表現を避け、亡友の句をもって納めたというのが蕪村の意図であろうが、この引用は逃避であり失敗であろうと言われる。
 広い川幅を湛えた流れに沿いながら足を進める少女の姿は、その滔々とした川を背景にしているので読む者も共に旅をしているような気がし、郷愁まで共有してしまう。浪花とふるさとを一本の川で結んでその間に春の風景を置き、その道を歩くのが少女であることで、叙情的な独特の俳体詩を創造した。


慈母の懐袍別に春あり

 句は更に幼時の母への思慕を還起したことが頷かれる。十三歳頃母を失った少年が、わが身の置きようにも亡き母の立場を思った昔日、母への憐憫の情しきりの今であったのではないだろうか。
 その沈潜しつづけた思いを、この「春風馬堤曲」で、少年ではなく少女に託した。冒頭にある「余」(故園に耆老を問う男)の存在を忘れてしまうほどに、少女の姿が印象的であり、慈母の懐袍をもろに出してしまったところに蕪村の構えの無さが出ていて、私はこの一行詩に愛すべき蕪村を感じるのである。
 蕪村の生れた大阪に棲みながら、中途半端な知識だけで過ごしてきたことを悔いるとともに、この「春風馬堤曲」に感じた、蕪村の内にある父母、子への情こそが蕪村の全てではないかと思いはじめた。
 「春風馬堤曲」を書いた時蕪村は六十二歳、前年娘を嫁がせた初老、いやその時代ではまったくの老人といえるかもしれない。しかし、蕪村には若い娘の形を借りてでも表現したい噴き出すような思いがあった。
 蕪村の心の中にある少女が娘くのであり、この「春風馬堤曲」を書いて間もなくのこと、嫁がせて半年で嫁入り先から取り返したという蕪村の行状と心境を、推測するに余りある。
 また、母の姿と娘の姿を追う蕪村に父の姿は見えないのだろうか。
 芭蕉と蕪村はよく対照的にとらえられるが、芭蕉はこんなにも心をさらけ出さない。芭蕉は五十一歳にして没したが、生涯「造化に従ひて四時を友とす」という風雅のまことを追求することに必死であった。それでありながら、彼は江戸へ出たあと十回余も故郷へ帰り、母や兄を慕い、その上甥の桃印をつれて江戸へ出て行くなど生涯故郷に抱かれ、身辺に伊賀上野を纏っている。
 一方蕪村は、幼い時に母が亡くなった。いわれているように父親が毛馬村の庄屋であり、母親はその家の奉公人であったとしたら、多分、同母の兄弟もなく、帰る家は荊のような思い出しかなかったのだろう。「春風馬堤曲」一篇にこめられている蕪村の心が切なく迫ってくる。
子供は母の様子や立場を理解するにしたがって、母を憐れむ思いが芽生えるということは、友人の小児科医に聞いたことだが、最近の児童虐待事件を見ていても、そういう母親を庇おうとする有様は、報道上の事ながら察することができる。蕪村がどんな状況の下で育てられたかはあくまでも推測の域を出ないが、帰れない生家であるがゆえに生家への思いを一生背負っているのが蕪村である。
 しかし、毛馬の風景は今訪れても広々として穏やかである。蕪村の原風景「わが故園」はあくまでもこの毛馬の日ざしであり、風や水、草の香りだったのである。
 伊賀上野の盆地で藤堂家嫡男蝉吟のお相手をし、城の中で生活をする芭蕉の少年時代と、開放的な毛馬の風景の中で馬堤を駆けまわる少年の蕪村を思い描く時、同じ俳諧を志しながら、また持って生まれた資質の違いがあるとしても、全く違う風土がそれぞれの為人を形成したのではないかと思われる。
 母に早く別れたから母を慕う思いが強く、故郷に帰ることができなかったから、故郷を思うこと人に倍したと思われ、ゆえに萩原朔太郎は、蕪村を「郷愁の詩人」と呼び、郷愁という一つのポエジイが彼の俳句のあらゆる表現を一貫して、読者の心に響いてくる音楽であり、詩的情感の本質をなす実体なのだと説く。また朔太郎は、蕪村は単なる写生主義者や、単なる技巧的スケッチ画家ではなく、反対に蕪村こそは、一つの強い主観を有し、イデアの痛切な思慕を詠ったところの、真の抒情詩の抒情詩人、真の俳人であった。(略)一言にして言えば、それは時間の遠い彼岸に実在してゐる、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思ふ、子守唄の哀切な思慕であった、と説く。


江戸での師父・宋阿

 蕪村が生まれた享保元年(一七一六)は、芭蕉没後二十二年目。其角没後九年、またその年には山口素堂、山本荷兮(やまぐちそどう、やまもとかけい)が没しているが、京や近江には俳人の行き来も多く、後に蕪村が江戸で身を寄せる早野巴人は享保十三年には江戸から京都に上り、十年ほど居住している。
 蕪村が母を失ったのは十三歳頃といわれ、その後江戸へ出ているがその年齢は十七歳から二十歳頃といろいろな説がありはっきりしない。それは大江丸の『はいかい袋』に蕪村ははじめ「江戸内田沾山に倚り、後に宋阿の門人」となったという記事があるためだという。宋阿は京都に居た早野巴人の改号で、砂岡雁宕(いさおかがんとう)が、巴人を江戸に帰る事を勧めた。この時代、「西鳥」の号が使われている。
 一七三七年(元文二年・二十二歳)江戸へ出た蕪村は、砂岡雁宕の紹介を受けて巴人の内弟子として夜半亭に入門、同居し、薪水の労をたすけ執事役を務めた。母の死後与謝において仏門に入った蕪村の法号が西鳥であり、この法号を授けたのは丹後宮津の浄土宗西方寺住職白道上人のほかには考えられないと述べておられるので、この説を享けたい。西鳥は元文三年(二十三歳)宰町を、元文四年には宰鳥となる。
 夜半亭での会で連衆にまみえ、その中で作風が培われ、多くの交遊を得ていった。また夜半亭に入る前後を通じてかなり画筆に親しんでいたらしいといわれ、一七四〇年(元文五年・二十五歳)冬、雁宕の案内で筑波の麓に冬を過ごした。
 一七四二年(寛保二年・二十七歳)六月六日、口中に痛みを覚えていた夜半亭相阿(巴人)は六十六歳で没した。蕪村は頼みとする師を失った。
 宋阿(そうあ)追善集『西の奥』に
宋阿の翁、このとし比(ころ)予が孤独なるを拾ひたすけて、枯乳の慈恵ふかゝりけるも、さるすべきすくせにや、いまや帰らぬ別れとなりぬる事のかなしびのやるかたなく、胸うちふたがりて云ふべく事もおぼへぬ
我泪古くはあれど泉かな   宰鳥
と宋阿を悼む。
 かつて京で対面したことがあったかもしれない宋阿の許で過ごした五年間は、身近に生活をしていく中で師と仰ぎつつ、蕪村にとっては幼時に味わえなかった父性を感じるほどの存在であったことが推測される。
 蕪村は宋阿の膝下で過ごしたある日のことを、後の宋阿三十三回忌追善集として蕪村の撰した『昔を今』の序に次のように記している。
「(宋阿が)ある夜危座して予にしめして曰く、夫俳諧のみちや、かならず師の句法に泥むべからず、時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有るべしとぞ。予、此一棒下に頓悟して、やゝはいかいの自在を知れり。(中略)もはら蕉翁のさびしをりをしたひ、いにしへにかへさんことをおもふ。」
 師の宋阿がここで述べた言葉は大きな示唆を与え、「蕉翁のさびしをりをしたひ、いにしへにかへさんことをおもふ」ようになった蕪村は、宋阿没後、砂岡雁宕を頼って江戸を去り、下総結城へ赴いた。雁宕は結城の名家で親族まで俳諧に親しんでいる一族であった。しかし、そこにじっとしているのではなく、法体の蕪村は関東から遠く酒田・象潟・能代・津軽・青森・盛岡・平泉・松島・仙台など十年間にわたる芭蕉の『おくのほそ道』の後を追うような行程であった。
 しかしこの漂泊の旅は、飢えもし、寒暑になやみ、辛苦にみちた旅であった。「蕪村」の号を使いはじめ、句をなし、画風を得てゆく蕪村の俳人、画人としての成長は、常に悲しみや苦しみの中からうまれていたのではないだろうか。芭蕉の「奥の細道」の旅は、既にある程度名も知られ行く先々には江戸で交わった藩士や商人もいたであろうが、蕪村にはまだそこまでの力はついていなかった。
芭蕉は「奥の細道」の旅により、誠に基づく人生観と芸術観の統一的自覚、景と情の統一的表現を求めて蕉風の思想と表現に開眼したが、蕪村は一生哲学や思想を追う人ではなかった。
 しかし、蕪村には絵筆があった。十年の放浪生活を切り上げ、京に上るまでには、それまでの和風の和画と違った漢画の手法が取り入れられるようになっていた。
 一七五四年、三十九歳春京都を去って丹後へ、宮津の見性寺に三年、四十二歳の九月、与謝を去って京都に帰る。与謝の施薬寺に残されている「方士求不死薬図」は皇帝の使いの方士が神仙の許へ不老不死の薬を求めに来た場面で、テーマも画法も漢画を取り入れている時代である。
 私が訪ねたのは平成八年一月半ば、寺への坂道に蕗の薹が覗いていた。壮年となった蕪村が母の故郷であり、病を得た母とともに数年間を過ごしたかもしれない与謝に「方士求不死薬図」を残していることに胸の詰まる思いで対したことを忘れない。蕪村四十歳頃の作といわれているが、落款(らっかん)は「四明」となっている。
 母げんの墓はこの寺から近い。谷口酒造の裏山の裾に二基の石塔が建ち、風化していて文字は読みにくいが、右側は〈月堂妙覚禅定尼〉でこれが母の墓、左側は「げんがさびしかろう」との父の思いで建てたもので〈南無阿弥陀仏〉と読める。
 父親はげんを谷口家の墓所に入れなかったといわれ、蕪村は母の追善の句日記『新花摘』を起稿したものの、くのの離婚により、筆を折っており、蕪村が母の墓を建立したという資料もないので、地元の言い伝えによる父親の気持ちを汲み取りたい。

娘くのの存在

 私は蕪村が池大雅と並ぶほどの絵師であることを長い間知らなかった。始めて蕪村の絵の大作を見たのは平成四年三月、丸亀の妙法寺の襖絵で、蘇鉄の図、竹の図、寿老人の図であった。丸亀に旅をすることが決まった時、かつてこの地に蕪村が滞在しており、絵が残っている筈だと知って実物を拝見することが出来たのであった。
 襖絵の見える部屋に通されると、その部屋の外には絵と同じ蘇鉄(そてつ)が太い幹を四方に広げて茂っていた。私には絵のことはよくわからないが、六枚の襖一杯に描かれた蘇鉄の力強いタッチに蕪村は画家でもあったのかとこの不思議な俳人のことが、それ以来脳裏に焼きついてしまった。
 蕪村が讃岐に遊んだのは五十一歳の秋から翌春・またその五月から一年滞在していることが知られているし、漢画を学んでいた時期に当り、明和二年・三年・四年というのは、丸山応挙との合作もある時期であった。絵の師を持たなかった蕪村だが、和画から漢画へと作風を変えて質感を出しはじめた時期のものであることを後で知った。
 その後は何かと蕪村の絵に接する機会も多くなり、有名な屏風仕立ての「奥の細道図」などは幾度も眼にすることが出来た。

 芭蕉の奥の細道の全文と挿絵を入れた「奥の細道図」は六十四歳、娘を婚家から取り戻した二年後の作品である。そのあまりにも自由奔放な文字と絵の屏風を始めて見た時はその構成にとにかく驚いた。この屏風仕立ては実に不思議な収め方で「奥の細道」の全文が収まり、その上適所の挿絵がまた絶妙である。まるでコンピューターでしか収められないような文字の大小の程合い、疎に密に書き込んだ「奥の細道」の本文と句、一行で書き流したり二段にして絵を入れたり、また三段にして描いたり、と、実に自由に描いたように見えていながら最後はきちんと六曲に本文が収まっている摩訶不思議な構成となっている。
 六十四歳で描いたこの「奥の細道図」は文字の配置と共に全文の書も、絵と一体となって蕪村という人物を浮き上がらせてくる。
実はその前年に同じように「奥の細道図」を描いているがこの構成は本文と絵を交互に描いた巻子で、平成十三年春、大阪市立美術館での『蕪村Uその二つの旅』で公開された。構成の仕方は異なるが筆致は共に独特の蕪村らしい明るさがある。
 自己流に始まり、和画・漢画を経た蕪村の書と絵が磨かれ磨かれた挙句、自己流に戻ったような自由な筆の運びは、まさに上方の風流そのもののようである。十六七歳で嫁入りさせたとみられる娘くのにもいかにも大坂人らしく芸事を習わせ「良縁在之、宜所へ片付、老心をやすんじ候。」と人に書き送った蕪村である。蕪村は四十七歳頃結婚したらしく、「田舎より妻一家ども罷登りおもしろからぬ長談・・」の書簡があり、夫としては、生きる術とはいえ書画に歌仙にと留守がちでその上花街や料亭に出入りし、やがては芸妓小糸との艶聞まで起こした。この辺りも芭蕉とは大いに異なるところで、蕪村は案外父を離れようとしつつ、父の後姿に惹かれていたのではないかと思うのは思い過ぎだろうか。
 再びくのを取り戻し、父と娘が共に住むことができる様になるまでの狭間の虚脱感と寂寥感の中でしたためた「春風馬堤曲」が、娘を愛し母を慕う蕪村の本心をさらけだしているのである。
 ちなみに蕪村は『夜半楽』三部作を刊行した二ヶ月あとの四月八日から、亡き母の追善のための句日記『新花摘』を起稿したことにもこの時期の蕪村の亡き母への深い追慕の情が表れているとみる。(母は享保十三年没の五十回忌か)しかし、『新花摘』は四月廿日頃には中絶した。精一杯豪勢な婚礼をしてくのを嫁がせたにも拘らず離縁問題が起こってしまったためとみられている。五月には離婚してしまった。
 「(略)むすめも先方の家風しのぎかね候や、うつうつと病気づき候故、いやいや金も命もありての事と不便に存候而、(略)」と書かねばならなくなったが、その一方、九月初旬には明るく弾むような筆致の巻子「奥の細道図」を描いた。再び娘と共に過ごすことのできるようになつた蕪村の心を覗き見るようである。この巻子の「奥の細道」については、「随分洒落ニ無之候而ハ、いやしく候て見られぬ物ニ候。それ故随分と風流洒落を第一ニ揮毫仕候」と自身は書いているが、翌年の屏風の「奥の細道図」はこの巻子を描いたことにより、触発されたものであろうか。
 芭蕉に関する絵図で現存するものとしては、その頃の「野ざらし紀行図」他画巻三点、屏風一点しかないが十点ほど描いたという。
 蕪村の生涯に少し深入りしたが、天明三年十二月二十五日未明(一七八四年一月十八日)、京都仏光寺烏丸西入ル町にて没した。門人月渓が臨終に侍坐し、筆をとる間もあわただしく筆硯料帋やうのものを揃えると

冬鶯むかし王維が垣根哉
うぐひすや何ごそつかす藪の霜
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

 こは初春と題を置べしと此三句を吟じて睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまうたという。無限の思慕を抱く芭蕉風の静寂な主観の句と評されている。

 一生生れた地へ帰ることを拒んだ蕪村ながら、自身の身の内には殷賑の地、毛馬の生家での幼時と大坂の気風、おそらく父の日常の暮しぶりが付き纏っていたのではないかと思える。
 妻のともは蕪村の死後出家し、清了尼と名乗って蕪村の墓に合葬され、娘くのは後に甲田氏に再婚したらしいという。

参考資料
『蕪村事典』
『淀川両岸一覧』
『蕪村俳句集』尾形仂校註
『郷愁の詩人 与謝蕪村』萩原朔太郎
『蕪村 その二つの旅』朝日新聞社
『没後220年 蕪村』逸翁美術館・柿衞文庫編
『若丹吟行案内』(社)俳人協会
『国文学解釈と鑑賞 天明の詩人与謝蕪村』至文堂


「謎」に包まれた「俳人蕪村幼年期」
毛馬一三
                
 青つい先日、寄稿者の眞邉峰松氏から「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏が執筆された(11月19日掲載) 「ふるさとは遠きにありて」を読んだ処、「何か俳人与謝蕪村を彷彿させられました。そう感じませんか?」という連絡を貰った。

 2年半後に大阪で「蕪村生誕300年祭」を実行する同志の眞邉峰松氏からの教唆だったが、確かに読めば真から同じように感じたものだった。これに絡む蕪村の「謎」に包まれた「幼年期」もこれから追々。

 まず、渡部亮次郎氏執筆の「ふるさとは遠きにありて」を改めて挙げさせて頂く。

<ふるさとは遠きにありて・・・

 この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うものものそして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

 つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。

 室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰って みた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでも あの故郷には帰るまい」と決意したのである。

 「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。そ
れとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。>。

 以上のように、「ふるさとは帰るまい」と決意した強力な室生犀星の意思が綴られている。

 そこで俳人与謝蕪村の場合も、「大阪毛馬の家を飛び出してからは、終生郷里に足を踏み入れない」が、全く室生犀星の決意と同じだと推測される。

 蕪村は、享保元年(1716)、大阪摂津の国東成郡毛馬村の村長(庄屋?)の家に生まれた。蕪村の母は、京都丹後の与謝から「毛馬村長の家」へ奉公人として来た。 ところが村長の妾となり、「蕪村」が生まれたのだ。しかし不幸にも蕪村が僅か13歳の頃、「毛馬」で母が亡くなった。間もなく村長も逝去して仕舞った。

 これが蕪村の人生を大きく変えた。蕪村は、俗に云う「妾の児」だったため、父の村長家系から外されて家系を継げなくなり、村長家一族から「強い苛め」に遭わされ、以来、生家「村長家」で、蕪村は身を縮めて生きていかざるを得ない苦境に追い込まれていったという。これが室生犀星の状況と全く類似している。

 そこで一人で力強く生きて抜くには、「毛馬」を離れ独り立ちするしかないと決意、江戸に上ることにした。父と母と住んでいた毛馬には「望郷想い」は強かったが、一族のいじめから「帰郷の念」を断ち切ったのだ。決意を固めた蕪村が郷里毛馬を離れ江戸へ発ったのは、17・8歳の頃と推測されている。

 だが、実際の処、蕪村が辛苦に溢れた生活環境の下で出奔するまで毛馬での幼年期に関する記録古書は、一切無く「謎」に包まれたままだ。 蕪村研究の専門の関西大学文学部の藤田真一教授は、「この期は、資料が無く全く空白部分です。」と話してくれた。

 従って、
・妾の児とはいえ、なぜ、家系を継げなかったのか
・「幼年期」に、どうして「江戸に上る」ことに思い付いたのか、
・江戸に上る金銭は、どこで準備したのか、財産を一部でも有していたのか、
・旅は、飢えもし、寒暑になやみ、辛苦にみちた旅であった筈だが、どのように耐えたのか
・田舎出の青年が、当時超有名な江戸の俳人師早野宋阿(巴人)の内弟子になったが、紹介者となった砂岡雁宕にどうして巡り逢えたのか、
「謎は」山積し、いずれも未だ明らかになっていない。

 江戸に上り俳人修業し、宋阿(巴人)が死んだあと、芭蕉を慕い関東・奥羽の漂白10年。旅をおえて36歳京に着いた蕪村は、画家を兼ねながら「春風馬堤曲」を書き、娘の「くの」を嫁がせるなど、江戸以降、京、母の里丹波与謝等での軌跡は、裏付けられている。

 だから「幼年期」が不透明なのは歯痒いことだ。

 室生犀星が、郷里の蔑みと冷遇によって「俺は死んでもあの故郷には帰るまい」とした決意を読んで、蕪村の「幼年期の謎」に包まれている部分が あるとはいえ、室生犀星と同じ生活環境からの同じ決意と見做していいだろう。(了)


松尾芭蕉の青春時代
平井 修一(特別寄稿)
                
 青春と言うのはある程度"悶々"としていた方がいいのではないか。道を求めて先人の書物を乱読するという、後から振り返ればかけがえのない期間になるからだ。病床で「おくのほそ道」を読みながら、そう思った。

 松尾芭蕉の青春時代は生地の伊賀上野(三重県伊賀市)を治める藤堂新七郎家の世継ぎ、良忠に仕えるようになった18〜19歳頃から始まる。

 藤堂家は文芸文筆に秀でた一族で、戦乱が終息し、安定した江戸時代にはさらに力を入れたという。良忠の趣味は俳諧で、芭蕉ともども京都の北村季吟に師事しており、芭蕉が仕官できたのも俳諧がとりもつ縁だった。

芭蕉の実家は名字帯刀は許されていたが身分は農民で、彼は次男坊だから実家には頼れない。良忠の近習あるいは料理人として仕官でき、禄を食むようになったことは大きな出世だったろう。

 しかし、好事魔多しで、芭蕉22歳のときに良忠が24歳で亡くなる。主君であり文学仲間でもあった良忠の死は、青年芭蕉に大きなショックを与え、この後、藤堂家を去る。

 そして7年後、29歳のときに芭蕉の最初の出版物「貝おほひ」を著わして俳壇に名乗りを上げることになるのだが、この間の7年間の消息はほとんど明らかになっていない。

 芭蕉研究の第一人者、萩原恭男は、この間芭蕉は禅林(禅宗寺院)で暮らしていたのではないかと、こう推測している。

 <生家を出た芭蕉は、その後の数年間の生活の場を京都の禅林などと想定するのがもっとも自然ではなかろうか。京都は亡君良忠の師、北村季吟の居所でもあり、俳諧への途を強く意識しつつ自立の方途をさぐり、同時に当面の生活をも支え修学、修行できる場所として、かかる好条件の場は他になかったに違いない>

 当時の京都の禅林には浪人などが常時200〜300人はおり、勤労奉仕、托鉢、座禅、漢詩文の素読を日課としていたという。芭蕉もその一人だったろう。

 芭蕉は大変な読書家である。「おくのほそ道」だけでも引用している本は123冊に及び、当時の名著、古典はほとんど読んでいる(「奥細道菅菰抄」)。たとえば――

 老子、荘子、書経、詩経、易経、論語、荀子、孟子から古事記、日本紀、前太平記、東鑑、源平盛衰記などの歴史書、大日経、金剛経、阿弥陀経、法華経などの仏典、万葉集、古今集、拾遺集などの歌集、源氏物語、伊勢物語、枕草子、徒然草・・・僧坊の書庫にある書物を片端から読んだろう。

 読書をしたからと言って青春の煩悶が消えるわけではないし、「人はかく生きるべし」といった明確な指針が得られるわけではない。読めば読むほどに問題意識や視野が広がるから、むしろ惑いは深くなるのかもしれな
い。

 芭蕉も「ある時は仕官をうらやみ、ひとたびは僧侶の途に入らんとせし」(「幻住庵記」)と悩みに悩むが、この精神の彷徨、精神の鍛錬こそが、やがては血肉に結晶するのではないか。芭蕉は「この一筋」と俳諧師として立つことを決心する。

 <ある時は俳諧に飽きてやめてしまおうと思い、ある時はすすんで人に勝って誇ろうとし、あれこれと迷い悩んで、そのために身も安らかではなかった。

 一時は世に出て立身出世を願ったが、この俳諧への執心のためにさまたげられ、また一時は学問をしておのれの愚かさを悟ろうと思ったけれども、やはり俳諧への思いのために破られ、ついに無能無芸のままに、ただ俳諧の一筋に生きる決意を固めた>(「笈の小文」)

 芭蕉が煩悶の中ではぐくんできた知識、教養、気骨、感性そして決意をもって江戸に向かったのは寛文12年(1672)、芭蕉29歳の時であった・・・

 書物があふれている時代が続いている。漫画やゲーム、オーディオ、ビデオなどを含めて娯楽の種類や量も今は爆発的に増えており、面白おかしく生きることが容易になった。だから若者が"悶々"とすることも暇を持て余すこともずいぶんと少なくなっているだろう。

 そのために思考することも少なくなり、逆境に遭うと思考停止のフリーズ状態になり、へたってしまう軟弱な若者が増えているのではないか。新入社員の離職率も年々高まっていると聞く。

 数十年、数百年と読み継がれてきた良書、古典を通じて学び、自らを鍛えるということは今の青春にはほとんどないのではないか。悩みがないか、せいぜい恋人がいないとか就職に苦労するくらいの矮小な悩みしかない。それは幸福そうに見えても実は不幸だろう。悩むべき時に悩まないツケは、いつかは回ってくるに違いない。(2013/06/28)

<「頂門の一針」から転載>


「望郷の念に浸っていた与謝蕪村」
毛馬一三
                
 江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていない。 蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

 京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

 蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

 また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している。特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

 ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いないようだ。

 自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

 筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」では、大阪市立大学と共同し3年後に迫った2016年に「蕪村生誕300年祭」開催の準備を進めている。 地元淀川連合町会や地元NPO法人とも、共同事業にする方向で折衝をしている。「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでも「蕪村生誕300年祭」を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

 大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、「蕪村魂」だけでも来場して貰いたいと思っている。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)


「与謝蕪村が大阪生誕俳人ってご存知?」
毛馬一三
松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸俳諧の巨匠与謝蕪村の生誕地が、大阪毛馬村(現・大阪市都島区毛馬町)だとは、江戸時代から「定説」になっていたものと信じていた。

ところがそうではないことが分かり、驚かされた。

というのは、私が代表のNPO近畿フォーラム21主催俳句講座「蕪村顕彰俳句大学」で、関西大学文学部の藤田真一教授の講演で初めて知ったのだ。

結論からいうと、蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、実は終戦後のことで、奈良県で「蕪村直筆の書簡」が見つかったのがキッカケだったとの説明だった。

藤田教授は講演の中で、次のように説明した。

蕪村は、自分の故郷のことには何故か余り触れたがらず、唯一、安永6年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(20頁ほど)の冒頭に「春風馬堤曲」を書き、毛馬村の側の淀川の馬堤に触れながら、18首の俳句を添えている。

毛馬村の名前を出したのは、唯一この「春風馬堤曲」だけだが、それでも自分の生誕地がこの毛馬村だったとは触れていない。

ところが、蕪村が自ら生誕地が大阪毛馬村だと初めて記したのは、蕪村が主宰する「夜半楽」の弟子に、この「春風馬堤曲」の冊子を贈呈した手紙の冒頭添え書に残されていった。

冊子を贈呈した大阪在住弟子は、柳女・賀端(がつい)で、添え書きの中に、自分の生誕地が毛馬村だと、下記のようにはっきりと書いている。

<春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」>。


この添え書きは、江戸時代から「物証」となって、毛馬村が生誕地と既知されていてもおかしくはないと思うのだが、そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。「夜半楽」弟子に宛てたこの「添え書き」ですら、複製ものなのか、それとも蕪村直筆なのか、江戸時代以降長い間、判定されていなかった。従ってこのために蕪村生誕地には複数説が広がっていたという。

ところが前記の如く、終戦後奈良県で偶然見つかった同「書き添え書簡」が、「蕪村直筆」だと、専門家によって公式に認認された。これよって、やっと「蕪村生誕地が毛馬村」であると確定したのである。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の、淀川風景の描写と切ない郷愁の18首も、毛馬が生誕地であることを補完する形を示すことになり、遂に毛馬村生誕地が不動のものになった訳だ。

この経過を考えると、弟子宛の蕪村生誕地を記述した1通の「蕪村直筆添え書き書簡」の公認の意味は大きい。

これがなかったら、蕪村が俳諧史に大阪俳人として登場することも無かったことになる。

蕪村が大阪毛馬生誕の俳人と定説になってから、僅か70年ほどしかならない。この影響があって、芭蕉や一茶とは異なり、大阪俳人として蕪村の顕彰が疎かにされてきたことは事実だ。

これからは4年後の蕪村生誕300年に向けて、私たちのNPO近畿フォーラム21で、生誕300年記念事業を進めることにしている。

目下検討中の"記念行事" は、   

@「国際俳句蕪村賞」を諸外国応募者に授与(大阪知事賞・大阪市長賞等)
A シンポジウム(俳句学者・俳人・俳句評論家が参加)
B 屋形船の「句会」(蕪村生誕地近郊の1級河川「淀川・大川」で)
C 蕪村歩こう会:(大阪市立大学文学部と共同事業)
D 蕪村公園内に「蕪村銅像建立」
E 蕪村公園へ植樹(蕪村俳句に詠まれた樹木)
F 蕪村生誕300年記念「俳句大会」(全国・海外から作品募集)
G 蕪村に宛てた絵手紙展(蕪村俳句からの絵手紙を募集・展示会)
H 蕪村カルタつくり(蕪村俳句から作ったカルタを募集・優秀作品を展示会)
I 蕪村紙芝居」と「蕪村顕彰ライブコンサート」同時開催
J 蕪村公園・毛馬閘門・毛馬胡瓜で生誕地都島区を広める「まちづくり」
K 2016年秋「生誕300年祭」を開催。諸外国俳句愛好家を招請

以上の事業を、推薦団体、協賛団体・協賛者のご協力を得て、生誕300年を迎える年迄に順次行いながら、2016年の生誕300年秋に盛大な「生誕記念祭」を行いたいと考えている。

大坂生誕与謝蕪村生誕記念事業をすすめることによって、後世と諸外国に「世界最短の詩・俳句」文化振興を進めていきたいのが、私の願いでもある。